今週は娘の結婚式もあって多忙。少しでも涼しくなってほしい。(哲




2013ソスN8ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1882013

 月光を胸に吸い込む少女かな

                           清水 昶

さんの『俳句航海日誌』(2013・七月堂)が上梓されました。2000年6.13「今は時雨の下ふる五月哉」に始まり、2011年5.29「遠雷の轟く沖に貨物船」に終わる927句が所収されています。日付順に並ぶ一句一句が、海へこぎだすサーフボートのように挑み、試み、言葉の海を越えていこうとしています。所々に記された日誌風の散文は、砂浜にたたずんで沖をみつめるのに似て、例えば「現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。」という一節に、こちらもさざ波が立ちます。句集では、「少年」を詠んだ句が10句、「少女」が7句。少年句は、「湧き水を汲む少年の腕細し」といった少年時代の自画像や「少年の胸に負け鶏荒れ止まず」といった動的な句が多いのに対し、少女句は、「ゆうだちに赤い日傘の少女咲く」「草青む少女の脚の長きかな」というように、そのまなざしには遠い憧憬があります。なかでも掲句(2003年8.19)は憧憬の極みで、少女は月光を吸って、胸の中で光合成をしているような幻想を抱きます。少年の動物性に対する少女の植物性。少女を呼吸器系の存在として、その息づかいに耳を遣っているように読んでしまうのは的外れかもしれません。ただ、この一句に翻弄されて、言葉の海の沖の向こうに流されました。ほかに、「『少年』を活字としたり初詩集」。(小笠原高志)


August 1782013

 去る時が来る爽涼の滝の前

                           松尾隆信

涼は、爽やか、の傍題で初秋。滝は夏季だが、この句には初秋の風が吹いている。かなり長い時間を、滝の飛沫を浴びながら過ごしていた作者である。滝を間近で見続けていると不思議な感覚にとらわれる。一点を見ていると水の勢いが感じられるが、上から下へ水の動きを目で追っていると、白い水の塊が意外にゆっくり落ち続けていて、引きこまれそうになる。そして落ち切った水は何事もなかったかのように、一枚の静かな流れとなって滝を後にして行くのだ。滝からの涼風とは別の風に、季節が移って来ていることを感じている作者なのだろう。『美雪』(2012)所収。(今井肖子)


August 1682013

 夕焼の中に危ふく人の立つ

                           波多野爽波

焼けの中に立っている人の存在感を、「危ふく」と捉えた。実際には、立っていた人は、危なっかしげであったのではあるまい。「危ふく」感じたのは、作者自身の主観。危うかったのは、作者自身の精神状態であったのではないか。波多野爽波の作品には、しばしば、不安感を表出したものが見られる。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)




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