映画館で隣り合わせた小学生が「もう飽きた」の連発。風立ちぬ。(哲




2013ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082013

 峰雲のかがやき盆は過ぎたれど

                           茨木和生

秋とは本当に名ばかりだと毎年のように思うが、俳句の世界ではその後はどんなに猛暑が続いても「残暑」「秋暑し」で乗り切らねばならない不自由が続く。そのなかで掲句の直球が心地よい。たしかにまごうことなき見事な峰雲がもくもくと出ているのだ。峰雲や入道雲とも呼ばれる通り、山に見立てられたり、大きな入道のかたちになぞらえたり、昔から親しんできた積乱雲は、雲のなかでももっとも背が高く、ときには成層圏にまで達することがあるという。若いときには8月といえば夏以外のなにものでもなく、夏が短いとさえ思っていたが、年を重ねるにつけ、夏の長さに辟易するようになってきた。掲句の下五の「過ぎたれど」には、「もう堪忍してよ」という弱音がちらりと感じられて面白い。ところで先日、積乱雲は海の上に出ているものか、山の向こうに出ているものか、と意見が分かれた。そして、それはふるさとの風景に大きく左右されていることに気づかされたのだった。〈青空のくわりんをひとつはづしけり〉〈くれなゐの色のいかにも毒茸〉『薬喰』(2013)所収。(土肥あき子)


August 1982013

 秋暑しあとひとつぶの頭痛薬

                           岬 雪夫

んなにも暑さがつづくと、月並みな挨拶を交わすのさえ大儀になってくる。マンションの掃除をしにきてくれている女の人とは、毎日のように短い立ち話をしているが、最近ではお互いに少し頭をさげる程度になってしまった。会話をしたって、する前から言うことは決まっているからだ。出会ったときのお互いの目が、それを雄弁に語ってしまっている。こうなってくると、なるべく外出も避けたくなる。常備している薬が「あとひとつぶ」になったことはわかっているが、薬局に出かけていくのを一日伸ばしにしてしまう。むろん「あとひとつぶ」を飲みたいときもあるけれど、炎暑のなかの外出の大儀さとを天秤にかければ、つい頭痛を我慢するほうを選んでしまうのだ。こんなふうにして、誰もが暑さを避けつつ暑さとたたかっている。この原稿を書いているいまの室温は、34度。こういうときのために予備の原稿を常備しておけばよいのだが、それができないのが我が悲しき性…。「俳句」(2013年8月号)所載。(清水哲男)


August 1882013

 月光を胸に吸い込む少女かな

                           清水 昶

さんの『俳句航海日誌』(2013・七月堂)が上梓されました。2000年6.13「今は時雨の下ふる五月哉」に始まり、2011年5.29「遠雷の轟く沖に貨物船」に終わる927句が所収されています。日付順に並ぶ一句一句が、海へこぎだすサーフボートのように挑み、試み、言葉の海を越えていこうとしています。所々に記された日誌風の散文は、砂浜にたたずんで沖をみつめるのに似て、例えば「現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。」という一節に、こちらもさざ波が立ちます。句集では、「少年」を詠んだ句が10句、「少女」が7句。少年句は、「湧き水を汲む少年の腕細し」といった少年時代の自画像や「少年の胸に負け鶏荒れ止まず」といった動的な句が多いのに対し、少女句は、「ゆうだちに赤い日傘の少女咲く」「草青む少女の脚の長きかな」というように、そのまなざしには遠い憧憬があります。なかでも掲句(2003年8.19)は憧憬の極みで、少女は月光を吸って、胸の中で光合成をしているような幻想を抱きます。少年の動物性に対する少女の植物性。少女を呼吸器系の存在として、その息づかいに耳を遣っているように読んでしまうのは的外れかもしれません。ただ、この一句に翻弄されて、言葉の海の沖の向こうに流されました。ほかに、「『少年』を活字としたり初詩集」。(小笠原高志)




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