明日は長女と孫がドイツに帰る。来た日と同様に寿司で乾杯。(哲




2013N824句(前日までの二句を含む)

August 2482013

 ふれて紙の表か裏か天の川

                           佐藤文香

、天の川を検索して出てくる画像と、子供の頃見ていた天の川の印象はかなり違う。満天の星空を仰いだ記憶の中の天の川は、川というより確かにミルキーウェイ、白くうすく流れていて、あの天の川の向こう側からこっちが透けて見えるかな、と思ったほどだった。そのうち天の川の向こう側、つまり裏側は無いのだ、と学習する。目に見えていながら実体がない、掲出句はそんな理屈を言っている訳ではないだろうが、メビウスの輪など持ち出すまでもなく、ひょいと返したパンケーキは裏が表に表が裏に、表と裏はあやうく不確かな存在である。たとえば水彩画の画用紙、少しざらっとした方が概ね表だが表裏は別として、指にふれたその感覚だけは確かなものなのだ。『俳句』(2013年8月号)所載。(今井肖子)


August 2382013

 セルの袖煙草の箱の軽さあり

                           波多野爽波

ルは、薄い毛織物で作った初夏の「単衣(ひとえ)」。セルの袖に煙草を一箱入れているのだが、その重みを「重さあり」と言わずに、「軽さあり」と表現したところが、一句の見所。作者の軽やかな心も、涼しげなイメージも伝わってくる。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


August 2282013

 父と姉の藪蚊の墓に詣でけり

                           澤 好摩

盆には連れ合いの実家のある広島に帰り山のふもとにある先祖代々の墓所に詣でるのが習いだった。田舎の墓は都会の墓と違い藪蚊が多い。周辺の草を抜き、花を供え線香をあげる間も大きな藪蚊が容赦なく襲いかかってくる。掲句の墓もそんな場所にある墓なのだろうか。この句の情景を読んで明治28年に東京から松山に帰って静養した子規が、久しぶりに父の墓参りをしたときに綴った新体詩「父の墓」の一節を思った。「見れば囲ひの垣破れて/一歩の外は畠なり。/石鎚颪来るなへに/粟穂御墓に触れんとす。/胸つぶれつつ見るからに、/あわてて草をむしり取る/わが手の上に頬の上に/飢ゑたる藪蚊群れて刺す」故郷を離れてしまうと係累の墓を訪れることもままならず、久しぶりに訪れた墓の荒れた様は心に甚くこたえるものだ。遠くにある墓を思うことは故人を思うことでもある。今年の盆も墓参りに行けなかった。草刈もせず、お供えもしないまま過ぎてしまった。と、苦い思いを噛みしめている人もいることだろう。『光源』(2013)所収。(三宅やよい)




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