August 272013
いなびかり満たす塩壼砂糖壼
花谷和子
この句、切れるのだろうか。上五の「いなびかり」で切ると、雷による稲光のなかで、塩壼に塩を、砂糖壼に砂糖を満たす。日常の行為でありながら、稲光に照らされたことによって、どこか満たされない思いの代償としてのふるまいに見えてくる。と、ここまで書いてふと気づく。やはりこの句、一章なのではないか、と。すると塩壼、砂糖壼がいなびかりで満たされているというのである。こちらの方が断然面白い。どちらも真っ白でさらさらな形態ながら、味覚としてはまったく逆の性質を持つ。雷が稲を実らせるという信仰から「稲妻」という言葉は生まれた。その伝でいくと、稲光によって塩壼砂糖壼の中身はそれぞれふさわしいものへと姿を変えていくように思えてくる。〈ちから抜く森よいずこも木の実降り〉〈過去は過去透きとおるまで百合根煮て〉『歌時計』(2013)所収。(土肥あき子)
November 282013
巻貝の渦ゆきわたる冬銀河
花谷和子
空気が冴えてくると星の輝きにも寒々とした光が宿る。巻貝の渦とは螺旋状に巻く殻の形状を表しているのだろう。銀河系の星の渦を巻貝の殻のかたちと重ね合わせたことで、海辺に生息する巻貝から数知れぬ星々を巻く銀河系宇宙とへと想像が広がっていく。まさに極小の詩形である俳句が極大なものを表現することができる見本のような句だ。巻貝の殻を「渦」と捉えたところに冬銀河との隠喩が生まれるのだが、その類似をつなぐのに「ゆきわたる」という言葉を配したことがこの句に宇宙へと広がる躍動感を与えているように思う。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)
December 262013
薔薇型のバターを崩すクリスマス
花谷和子
とてもクリスマスらしい雰囲気を持った句である。私が子供の頃は今ほど街のイルミネーションも家に飾る大きなツリーもなく、普段と変わらない晩御飯の後こちこちに固められたバターケーキがクリスマスを感じさせる唯一のものだった。ケーキなどほとんど口にすることのない子供にとっては待ち遠しいものだった。ケーキにはデコレーションのピンクの薔薇と露に見立てた甘い仁丹(?)の露がついていた。掲句の薔薇はそんな時代めいたしろものではなく、ホテルなどで出される薔薇を象ったバターだろう。「崩す」という言葉がありながらクリスマスの特別な晩餐と、その華やいだ雰囲気を楽しく連想させるのは「薔薇」と「バター」の韻を踏んだ明るい響きと「クリスマス」に着地する心地よいリズムがあるからだろう。思えば日本のクリスマスも昔憧れた外国のクリスマスのように垢抜けたものになりつつある。さてそんなクリスマスも終わり今日からは街のにぎわいも正月準備一色になることだろう。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)
February 122015
春星や紙石鹼も詩もはるか
花谷和子
紙石鹸!懐かしい。私が小学校ぐらいまで紙石鹸ってあった。湿気があるとすぐベタベタになってしまい実用的に見えて実際の用途に耐えるものではなかった。時代はいろんなものを置き去りにしてゆく。紙石鹸、セルロイドの筆箱、薬包紙、昭和30年代に日常的にあって消えてしまったものは多い。青春期に渇望に近い気持ちで読んだ詩も、今はそうした心持ちで向かうことはなくなったのか。春星と詩の取り合わせは甘やかに思えるが、はるか春星への距離と同時に二度と戻れぬ過去への時間的隔たりを「紙石鹸」という具体物で表している。紙石鹸は懐かしいが今の自分とはかかわりのないもの。あれほど繰り返し読んだ詩も今の自分からは遠い。時代は変わり人の心も変わる。失ったからこそ、郷愁はかきたてられるのだろう。『歌時計』(2013)所収。(三宅やよい)
June 252016
さくらんぼ洗ふ間近に子の睫毛
花谷和子
旬を迎えているさくらんぼ。今日も近所のスーパーで美しく陳列されていて、「はい、さくらんぼですよ、旬が短いさくらんぼ、今日はもう夏至、今が食べ時お買い得〜」と言っている青果売り場のおじさんの顔を思わず見てしまったが、「旬」とは四季がある日本らしいまこと良い言葉だなとあらためて思う。さくらんぼ、という音の響きやその形や色の愛らしさから、さくらんぼの句にはよく子供が登場するが、掲出句の、睫毛、は省略が効いていて俳句らしい表現だ。母の手が洗うさくらんぼをのぞき込む子の視線、その子に注がれている母の視線。長い睫毛の大きな目はさくらんぼよりきらきらしている。『季寄せ 草木花 夏』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)
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