国主あるいは豪雨の八月もそろそろお終い。いやあ辛かった。(哲




2013ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982013

 ネクタイのとける音すずしい

                           岡田幸生

由律俳句である。5・5・4の構成で俳句を聞きなれた耳には、その字足らずが句の内容と相まって風通し良く感じられる。季語の「新涼」は少し爽やかな風を感じたとき、「涼し」は暑さの中に見出す涼気であるが、この句の「すずしい」はあくまで固いネクタイの結び目をとく音に付随したものだから、季語の本意とかかわりはないだろう。クールビズのいきわたった今は通勤電車を見渡してみてもネクタイをしていない人の方が多いが、ちょっと前までほとんどサラリーマンは夏でも背広にネクタイの暑苦しい姿で出勤していた。そう考えると一日中締めていた襟元を緩めて絹のネクタイをほどく音が涼しげに聞こえるのはこの季節ならではと思える。帯を解く音、ネクタイをとく音、シルクのワンピースの裾をさばく音、そういえば絹には「すずしい」音があるなぁと句を読んで思った。『無伴奏』(1996)所収。(三宅やよい)


August 2882013

 夏終る腹話術師の声の闇

                           高橋修宏

形を抱いて愛嬌たっぷり登場する腹話術師、その唇をほとんど動かさずにしゃべるという珍しい芸に、子どもの頃から見とれて感心するばかりだった。パクパクする人形の唇と腹話術師の唇を、秘密を探るがごとく交互に見比べる。いまだにそうだ。もともとは呪術や占いとして使われ、紀元前五世紀頃にはギリシアの聖職者が腹話術を使ったりしたのだという。それが十八世紀頃から次第にショー化してきたという歴史があるようだ。現在の日本では芸人「いっこく堂」のすぐれた腹話術がよく知られている。彼は二体の人形も見事に使い分ける。日本腹話術師協会には三百人以上の会員がいるらしい。唇をほとんど動かさずに人形の言葉を発する芸には、感心してただポカンと見とれているわけだが、それを修宏は「声の闇」ととらえたところが、ただのポカンとはちがって緻密である。もともと呪術や占いとして発生したことを思えば、「声の闇」の神秘性には測り知れない奥行きがありそうだ。「夏終る」という季語と相俟って、その闇の神秘性を一層考えさせ、闇はむしろ素敵に深まるばかりではないか。他に「首都五月屈めば見ゆるされこうべ」がある。詩人にして俳人。『虚器』(2013)所収。(八木忠栄)


August 2782013

 いなびかり満たす塩壼砂糖壼

                           花谷和子

の句、切れるのだろうか。上五の「いなびかり」で切ると、雷による稲光のなかで、塩壼に塩を、砂糖壼に砂糖を満たす。日常の行為でありながら、稲光に照らされたことによって、どこか満たされない思いの代償としてのふるまいに見えてくる。と、ここまで書いてふと気づく。やはりこの句、一章なのではないか、と。すると塩壼、砂糖壼がいなびかりで満たされているというのである。こちらの方が断然面白い。どちらも真っ白でさらさらな形態ながら、味覚としてはまったく逆の性質を持つ。雷が稲を実らせるという信仰から「稲妻」という言葉は生まれた。その伝でいくと、稲光によって塩壼砂糖壼の中身はそれぞれふさわしいものへと姿を変えていくように思えてくる。〈ちから抜く森よいずこも木の実降り〉〈過去は過去透きとおるまで百合根煮て〉『歌時計』(2013)所収。(土肥あき子)




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