また暑い夏が戻ってくるんだそうな。忘れ物なんてないはずだが。(哲




2013ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292013

 新涼や夕餉に外す腕時計

                           五十嵐秀彦

井隆の『静かな生活』に「腕時計せぬ日しばしば手首みる小人(こびと)がそこにゐた筈なんだ」という一首がある。腕時計は毎日仕事にゆく生活をしている人にはなくてはならない小道具。分割された時間に動く自分を縛るものでもある。岡井の短歌は手首で時を刻む腕時計そのものを勤勉な小人の働く場所と見立てのだろうが、「腕時計」をはずすときは自分の時間を取り戻すときでもある。掲句では、家族とともに囲む夕餉に腕時計をはずす、その行為自体に新涼の爽やかさを感じさせる。腕時計と言えばベルトも革製のものとメタルのものがあるが、少し重さを感じさせるメタルの質感がこの句の雰囲気にはあっているように思う。昼の暑さが去り、めっきり涼しくなった夕餉時、ひと仕事終えた解放感とともに、食卓に整えられた料理への食欲も増すようである。『無量』(2013)所収。(三宅やよい)


September 1192013

 かきくわりんくりからすうりさがひとり

                           瀬戸内寂聴

字を当てれば「柿榠樝栗烏瓜嵯峨一人」となろう。一読して誰もが気づくように、四つの果実の「K」音がこころよい響きで連続する。しかもすべて平仮名表記されたやわらかさ。京都・嵯峨野の寂庵に住まいする寂聴の偽りない静かな心境であろう。秋の果実が豊富にみのっている嵯峨にあって、ひとり庵をむすんでいることの寂寥感などではなく、みのりの秋のむしろ心のやすらかさ・感謝の気持ちがにじんでいる、と解釈すべきだろう。「さがひとり」の一言がそのことを過不足なく表現している。この句を引用している黒田杏子によれば、この俳句は「二十数年も前にNHKハイビジョンの番組で画面に大きく出た」もので、愛唱している女性が何人もいるという。寂聴は高齢にもかかわらず、今も幅広く精力的に活躍している人だが、杏子は昭和六十年以来、寂庵での「あんず句会」の第一回から選者・講師をつとめて親交を結んでいる。寂聴句のことを「その俳句も私俳句であり、世にいう文人俳句という分類にははまらない」と指摘している。寂聴句には他に「御山(おんやま)のひとりに深き花の闇」がある。黒田杏子『手紙歳時記』(2012)所載。(八木忠栄)


September 1092013

 羊羹の夜長の色を切りにけり

                           川名将義

暑がどれほど長い尾を引いていようと、日がずいぶんと短くなったことだけは確かだ。本日の東京の日の出は午前5時20分、日の入りは午後5時56分と、夏至の頃と比べると日の出は一時間遅く、日の入りは一時間早くなった。実際にもっとも夜が長くなる冬至だが、夜長という言葉はこの時期のほんの少し前とのギャップが思わせるもので、夜そのものに抱くイメージもさみしさより懐かしさを募らせるものだ。掲句は羊羹を前にして、夜長の色という。たしかに切り分けるときのねっちりとした手応えと、漆黒というより小豆の赤みを凝縮した暗色に覚える安らぎは、長い夏を終えたというひとごこちが思わせるものだろう。いつもは敬遠している強烈な甘さも、長い夜を楽しむための濃いお茶とともに、一切れ欲しくなる夜である。『海嶺』(2013)所収。(土肥あき子)




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