3連休がやってきた、余計な台風引き連れて。とかくこの世は…。(哲




2013ソスN9ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1492013

 かたすみのかたいすすきを描く絵筆

                           宮本佳世乃

週はじめ、小さい向日葵とすすきが数本ずつの花束が花屋の店先に。暑さが残りながらも秋めいてきた今時分らしいようにも思えて買い求めた。一緒に投げ入れてみるとなかなかおもしろく、すすきの穂はまだ硬いけれどふれるとなめらかで、窓際に置くと空を恋うように光って揺れる。来週の名月までは持たないなと思いながら本棚の俳誌をめくっていたら掲出句が目に止まった。まず一叢のすすきがありありと見えて、それから細い絵筆がすっすっと動き次々にすすきのかたちが生まれてゆくのが見えてくる。揺れるすすき、絵の中のすすき、絵筆の先、それぞれの曲線が美しい。俳誌「豆の木」(2012年4月・16号)所載。(今井肖子)


September 1392013

 夜の湖の暗きを流れ桐一葉

                           波多野爽波

の句には、爽波の自註がある。作句工房がうかがえて、面白い。「真っ暗な湖上をいくら眺めすかして見ても、はるかの沖を流れる桐の一葉など目に入る筈がない。その場で確かに見たのは(略)湖の渚に流れつき漂い浮かぶ一枚の桐の一葉そのものだった。」(『波多野爽波全集』第三巻)実際に目にしたのは、湖畔に流れ着いた桐の葉が、たぷたぷ、渚に漂っている様子だったのだ。また、次のようにも述べている。「湖畔の燈火の下にもまれ漂う桐の一葉に目を凝らしているとき、初秋の湖の殊のほかの暗さを想い、目の前のここの桐の一葉から暗闇の湖上はるかを可成りの速度で流れ続けているであろう、かしこの桐の一葉を瞬時にまなうらに見て取ったのである。」(同)夜の湖を流れている桐の葉は、爽波の心の目が見たものだった。眼前の桐の葉は、湖中の桐の葉に飛躍し、そのイメージは瞬間的に、心の中を過ぎったのである。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


September 1292013

 新涼や夕餉に外す腕時計

                           五十嵐秀彦

井隆の『静かな生活』に「腕時計せぬ日しばしば手首みる小人(こびと)がそこにゐた筈なんだ」という一首がある。腕時計は毎日仕事にゆく生活をしている人にはなくてはならない小道具。分割された時間に動く自分を縛るものでもある。岡井の短歌は手首で時を刻む腕時計そのものを勤勉な小人の働く場所と見立てのだろうが、「腕時計」をはずすときは自分の時間を取り戻すときでもある。掲句では、家族とともに囲む夕餉に腕時計をはずす、その行為自体に新涼の爽やかさを感じさせる。腕時計と言えばベルトも革製のものとメタルのものがあるが、少し重さを感じさせるメタルの質感がこの句の雰囲気にはあっているように思う。昼の暑さが去り、めっきり涼しくなった夕餉時、ひと仕事終えた解放感とともに、食卓に整えられた料理への食欲も増すようである。『無量』(2013)所収。(三宅やよい)




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