次々と台風が…。今年は気候に振り回されすぎ。冬がこわい。(哲




2013ソスN10ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 06102013

 絵の中の時計も正午秋の蝉

                           皆吉 司

いうことは、現在は正午。絵の中の時計は、一日に真昼と真夜中に一回ずつ、正しい時刻と重なります。ということは、23時間58分は狂っているということで、朝起きて絵を見ても正午を指していて、夕食を食べている時間もずっと正午を指しているわけです。当たり前ですよね、絵なんだから。虚構なんだから、現実の世界に侵入してくるのは昼と夜の真ん中の一回ずつ、一分ずつが丁度よい。ところで、秋の蝉です。親が悪いのか、自分がとんまなのか、人生(蝉生?)最大の大遅刻です。今啼(な)いたって、たぶん、雌には逢えないじゃないですか。それとも、土の中にはもう還れないのだから、絵の中に入って来年の夏まで待ちますか?冗談です。絵の中で描かれた時計は、一日に二度の周期で現実と重なる。季節外れに羽化した蝉は、果たして、同様にとんまな雌に巡り逢い重なり合えるやら?人の世では似た者夫婦という言葉もあるので、甘い期待に賭けたいところですが、このてんまつやいかに。正午の今が、正念場だぞ、啼けよ、セミ。なお、掲句からしみじみ、自分も秋の蝉なのではないかと、ふと寂しく笑います。『皆吉司句集』(2000)所収。(小笠原高志)


October 05102013

 背の高きことは良きこと秋立ちぬ

                           宮田珠子

秋からほぼ二ヶ月経ってしまったのだが今日の一句とした。平成二十一年秋の作とわかっているが、活字になっていないので出典はない。秋立つのは一日のこと、たいていまだまだ暑いので季感も含めて、暦の上では秋、と思いながら一日過ごしても句を為しづらい。この句が、秋の晴、であったら平凡な発想、秋立つ、であるから、ふと清々しいのだろう。当時小学六年生だったお嬢さんを詠んだ一句、と知ると、背が高いことを気にしている娘に対する母の眼差しと共に、母と娘の立秋の一日が思われる。先週、作者は五十年の生涯を閉じられ、その葬儀に参列した。初めてお目にかかったお嬢さんは今は高校一年生、すらりと伸びた脚に制服がよく似合っていた。(今井肖子)


October 04102013

 ソース壜汚れて立てる野分かな

                           波多野爽波

食堂のテーブルに、汚れたソース壜が立っていることがある。外は野分の風が吹き荒れている。一見、単なる取り合わせのように見えて、汚れたソース壜は、野分の濁流や被害を彷彿させる。それでも、ソース壜は、じっと立っているのだ。家の内と外とを繋ぐものは、一本のソース壜でしかない。それでも、野分の情景をありありと感じさせてくれる。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)




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