October 082013
鹿鳴くや思いの丈といふ長さ
桑原立生
百人一首でおなじみ〈奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき〉にあるように、秋は鹿の繁殖シーズンであり、妻を求める声をあげる。しかし、以前ごく近くで聞いたラッティングコールは、百人一首で想像していたものよりずっと激しいものだった。自然界において愛の成就は、常に縄張りをめぐるたたかいと同時進行していくのだから、求愛の声が猛々しくなるのは仕方ないことだろう。思いの丈とは、恋慕の相手に対する情熱をオブラートに包んだ言葉だ。長々と鳴く鳴き声を「思いの丈」という人間の情になぞらえたとき、鹿は一瞬にして恋する獣として映し出される。歯をむきだしにする野生をひそめ、一頭の妻を求める牡鹿の切ない姿がそこに現れるのだ。〈逆上がりできて木の実をこぼしけり〉〈ねんねこを覗けば見つめ返さるる〉『寒の水』(2013)所収。(土肥あき子)
October 072013
木の蔭の中の草影秋暑し
山口昭男
秋は大気が澄んでくるから、見えるものの輪郭がくっきりとしてくる。影についてもそれは同じで、陽炎燃える春などに比べれば、その差は歴然としている。この句は「木の蔭」と「草の影」を同じ場所に同時に発見することで、澄み切った大気の状態と夏を思わせる強い日差しとを一挙に把握している。それにしても、木陰の中の草影とは言い得て妙だ。ふだん誰もが目にしている情景だが、たいていの人はそのことに気がつかないか、気づいても格別な感想を持つことはないだろう。そうした何でもないようなトリビアルな情景を拾い出し、あらためて句のかたちにしてみると、その情景以上の何かが見えてくるようだ。俳句の面白さのひとつはたぶん、このへんにある。この発見に満足している作者の顔が見えるようで、ほほ笑ましい。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)
October 062013
絵の中の時計も正午秋の蝉
皆吉 司
ということは、現在は正午。絵の中の時計は、一日に真昼と真夜中に一回ずつ、正しい時刻と重なります。ということは、23時間58分は狂っているということで、朝起きて絵を見ても正午を指していて、夕食を食べている時間もずっと正午を指しているわけです。当たり前ですよね、絵なんだから。虚構なんだから、現実の世界に侵入してくるのは昼と夜の真ん中の一回ずつ、一分ずつが丁度よい。ところで、秋の蝉です。親が悪いのか、自分がとんまなのか、人生(蝉生?)最大の大遅刻です。今啼(な)いたって、たぶん、雌には逢えないじゃないですか。それとも、土の中にはもう還れないのだから、絵の中に入って来年の夏まで待ちますか?冗談です。絵の中で描かれた時計は、一日に二度の周期で現実と重なる。季節外れに羽化した蝉は、果たして、同様にとんまな雌に巡り逢い重なり合えるやら?人の世では似た者夫婦という言葉もあるので、甘い期待に賭けたいところですが、このてんまつやいかに。正午の今が、正念場だぞ、啼けよ、セミ。なお、掲句からしみじみ、自分も秋の蝉なのではないかと、ふと寂しく笑います。『皆吉司句集』(2000)所収。(小笠原高志)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|