October 092013
石を置く屋根並べをり秋の蝶
和田芳恵
瓦屋根ではなくて、何軒もの家々の屋根には石がならべられている、それはどこかに実在する集落であろう。そうした素朴な集落の家々の軒先や屋根高くまで、秋風に吹かれて飛んでいる蝶の風景が見えてくる。「並べをり」で切れる。蝶は四季を通じて見られるけれども、単に「蝶」だと春の季語であることは言うまでもない。春の蝶は可愛さも一入だし、小型種が多いと言われる。秋の蝶だから、風にあおられて屋根まで高く飛んでいるのだろう。石も蝶も、どことなくさびしさを伴っている。今はどうか、かつては屋根に石を置く地域があった、掲句はそれを目の当たりにして詠まれている。何をかくそう、私の生まれ育った実家の屋根も、広い杉皮を敷きつめ、その上にごろた石がいくつも置かれていた。雪下ろしの際にはそれらが長靴やシャベルにぶつかって、作業がやりにくかったことをよく覚えている。近所にはそういう家はなかったようだから、わが家では瓦を上げる資金がなかったのかーー。小学五年頃にめでたくコンクリート瓦にかわり、子ども心に晴れ晴れした気持ちになった。芳恵には他に「病む妻と見てをりし天の川」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
October 082013
鹿鳴くや思いの丈といふ長さ
桑原立生
百人一首でおなじみ〈奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき〉にあるように、秋は鹿の繁殖シーズンであり、妻を求める声をあげる。しかし、以前ごく近くで聞いたラッティングコールは、百人一首で想像していたものよりずっと激しいものだった。自然界において愛の成就は、常に縄張りをめぐるたたかいと同時進行していくのだから、求愛の声が猛々しくなるのは仕方ないことだろう。思いの丈とは、恋慕の相手に対する情熱をオブラートに包んだ言葉だ。長々と鳴く鳴き声を「思いの丈」という人間の情になぞらえたとき、鹿は一瞬にして恋する獣として映し出される。歯をむきだしにする野生をひそめ、一頭の妻を求める牡鹿の切ない姿がそこに現れるのだ。〈逆上がりできて木の実をこぼしけり〉〈ねんねこを覗けば見つめ返さるる〉『寒の水』(2013)所収。(土肥あき子)
October 072013
木の蔭の中の草影秋暑し
山口昭男
秋は大気が澄んでくるから、見えるものの輪郭がくっきりとしてくる。影についてもそれは同じで、陽炎燃える春などに比べれば、その差は歴然としている。この句は「木の蔭」と「草の影」を同じ場所に同時に発見することで、澄み切った大気の状態と夏を思わせる強い日差しとを一挙に把握している。それにしても、木陰の中の草影とは言い得て妙だ。ふだん誰もが目にしている情景だが、たいていの人はそのことに気がつかないか、気づいても格別な感想を持つことはないだろう。そうした何でもないようなトリビアルな情景を拾い出し、あらためて句のかたちにしてみると、その情景以上の何かが見えてくるようだ。俳句の面白さのひとつはたぶん、このへんにある。この発見に満足している作者の顔が見えるようで、ほほ笑ましい。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)
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