さあ、クライマックス・シリーズだ。第一戦がいちばん大事。(哲




2013ソスN10ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 12102013

 わがいのち菊にむかひてしづかなる

                           水原秋桜子

の菊、と題された連作五句のうちの一句。五句のちょうど真ん中、三句目である。菊の美しさを描こうと、朝夕菊をじっと眺めて作ったという。昭和八年の作というから、四十一歳になったばかりというところか。のちにこの連作について「力をこめたものであるが、菊の美しさを描き出すにはまだまだ腕の足らぬことが嘆かれた句」と自解している。しかし、一句だけをすっと読むと、どうすればこの菊の美しさを表現できるだろうか、という言わば雑念のようなものが消えて、菊の耀きと向き合うことによって作者の心が言葉となって自然にこぼれでているように感じられる。以前も一句を引いた『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)、俳句と共にその人となりが味わえて興味深い。(今井肖子)


October 11102013

 吊したる箒に秋の星ちかく

                           波多野爽波

波は時折、極めてリリカルな句を作る、どこか軒先にでも吊してある箒のすぐ間近に秋の星が輝いていたのだ。箒と秋の星の取り合わせ。この句は、位置的な関係を無視できない。箒が吊されていなかったら(たとえば、地面に置いてあったら)、秋の星間近に見えることもなかっただろう。新鮮なアングルである。「秋の星ちかく」の「ちかく」は星の大きさは言っていないが、私には、はっきりと見える大きな星であるように思える。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 10102013

 豆菊や昼の別れは楽しくて

                           八田木枯

い先日、人と別れるのに「さようなら」と言ってその語感の重さにぎくりとした。数日後に顔をあわせる人や職場の同僚、親しい友人には「じゃあまた」と手を挙げて挨拶する程度の別れの挨拶であるし、目上の人には「失礼します」で日常過ごしていることに改めて気づかされた。よく人生の時期を季節に例えるけれど、自分の年齢も人生の秋から冬へ移行しつつある。一日の時間帯で言えば夜にさしかかりつつあるのだろう。人と別れるのは永遠の別れを常にはらんでいることを若い時には考えもしなかった。そう考えると掲句の青春性が眩しい。豆菊は道端の野菊のように可愛らしい小菊のことだろうか。はしゃぎながら別れる女子高生や、元気な子供たちが想像される。別れの言葉は?「バイバイ」って手を振るぐらいだろな。三々五々散ってゆく人たちの去ったあとの豆菊の存在が可憐に思える。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)




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