October 132013
一歩出てわが影を得し秋日和
日野草城
秋のやわらかな日差しを窓外に見ていると、少し身なりを整えて、この日曜日、外出しようかという気になります。晴天の日、家の中と外では文字通り、ケとハレの違いがあるように思われます。外に出るときは、少しはにかみながら晴れがましくもあります。掲句は、作者自らの足どりを微足(スローテンポの歩み)の舞踏家を見るように示しています。「一歩出て」には、家の中から外へ出る一歩に、相当なエネルギーを要しています。ふだんは病に身を横たえている作者は、直立歩行して得られた「わが影」を見て、自ら立って、生きている姿を確認しています。この姿は、秋日和を照明にした、作者の晴れ舞台のようでもあるでしょう。共演者は脇から支えている妻。しかし、観客は誰もいません。ただ、「わが影」を見ている作者自身が、演じる者と観る者の二役をこなしています。『人生の午後』(1953)所収。(小笠原高志)
October 122013
わがいのち菊にむかひてしづかなる
水原秋桜子
瓶の菊、と題された連作五句のうちの一句。五句のちょうど真ん中、三句目である。菊の美しさを描こうと、朝夕菊をじっと眺めて作ったという。昭和八年の作というから、四十一歳になったばかりというところか。のちにこの連作について「力をこめたものであるが、菊の美しさを描き出すにはまだまだ腕の足らぬことが嘆かれた句」と自解している。しかし、一句だけをすっと読むと、どうすればこの菊の美しさを表現できるだろうか、という言わば雑念のようなものが消えて、菊の耀きと向き合うことによって作者の心が言葉となって自然にこぼれでているように感じられる。以前も一句を引いた『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)、俳句と共にその人となりが味わえて興味深い。(今井肖子)
October 112013
吊したる箒に秋の星ちかく
波多野爽波
爽波は時折、極めてリリカルな句を作る、どこか軒先にでも吊してある箒のすぐ間近に秋の星が輝いていたのだ。箒と秋の星の取り合わせ。この句は、位置的な関係を無視できない。箒が吊されていなかったら(たとえば、地面に置いてあったら)、秋の星間近に見えることもなかっただろう。新鮮なアングルである。「秋の星ちかく」の「ちかく」は星の大きさは言っていないが、私には、はっきりと見える大きな星であるように思える。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)
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