今日は庭木の植栽管理で薬品散布。晴れそうだが洗濯物が干せない。(哲




2013ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102013

 貧しさの戦後の色よ紫蘇畑

                           鍵和田秞子

きごろ亡くなった漫画家のやなせたかしが、こんなことを書き残している。「内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる」(「アンパンマンの遺書」)。掲句の作者は、敗戦当時十三歳。別の句に「黍畑戦中の飢え忘れ得ぬ」とあるように、戦後七十年近くを経ても、いまなお飢えの記憶は鮮明なのである。当時七歳でしかなかった私などでも、飢えの記憶はときおり恨み言のようによみがえってくる。この句のユニークさは、そんな飢えに代表される貧しさを、「色」で表現している点だろう。通りかかった一面の紫蘇畑を見て、ああこの色こそが「戦後の色」と言うにふさわしいと思えたのだった。紫蘇は赤紫蘇だ。焼け跡のいずこを眺めても、まず目に入ってくるのは瑞々しさを欠いた紫蘇の葉のような色だった。他にも目立つ「色」はなかったかと思い出してみたが、思い浮かばない。埃まみれの赤茶けた色。憎むべき、しかしどこにも憎しみをぶつけようのない乾いた死の色であった。「WEP俳句通信」(76号・2013年10月刊)所載。(清水哲男)


October 20102013

 樹も草も時雨地に呼ぶ峡の国

                           飯田龍太

の読みは、キョウ。山あいにはさまれた谷で、作者が住む山梨県、旧境川村です。山から谷の斜面にかけて、樹が草が、垂直を志向しながら生えていて、谷間に続いています。「時雨地に呼ぶ」とは何なのだろうかと考えております。何が呼ぶのか。ふつうに読めば、樹も草も時雨を地面に呼んでいる、でよいのでしょう。ただ、この句は、「峡の国」が地形としてダイナミックなので、地球規模の大きな構想で読んでみたいとも思います。樹の根も草の根も地球の中心を志向しており、時雨も同様、地球の引力に引き寄せられて落下しています。何が呼んでいるのか。それは、地球の中心、重力が呼んでいて、峡の国ではその垂直の力が視覚化されやすいのでしょう。「地」は重力と読みました。物質に質量を与えるヒックス粒子が報道されていて、全く理解できていないのですが、すこしばかり俳句の読みに影響しているかもしれません。『春の道』(1971)所収。(小笠原高志)


October 19102013

 打てばひゞくわれと思ふや秋の風

                           久保よりゑ

らを、打てば響く、とはなかなか言えないだろう、自信家だったのかと最初は思った。事実、そういう側面も持っていた作者であるようだ。大正十四年、四十代初めの作だが『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(1987・朝日文庫)の中でも『虚子編歳時記』の中でも、秋風の項にあって趣の異なる一句である。ただ、何度か読み返していると、打てば響く自分を打って欲しい、どうして打ってくれないのか、と言っているようにも思えてくる。はげしくあらく、身にしみてあはれをそふる、という秋風。その中に身を置きながら何を思っていたのだろう。(今井肖子)




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