今年も最後の月になりました。人生最後の月は何月かしらん。(哲




2013ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01122013

 蜜柑捥ぎ終へてありけり蜜柑山

                           齋藤春雄

柑狩りの句でしょう。晴天の昼間、たわわに実る蜜柑畑の中に入って、はさみ片手に一つずつ捥(も)ぎ取り、かごに入れていきます。年譜によると作者61歳の句で、背よりも少し高い所にも手を伸ばし、シャンとした気分になっています。帰り道、かご一杯に盛られた蜜柑はずっしり重く、今日の収穫を喜びながらふり返ると、青空の中、蜜柑山は健在で、作者たちがかご一杯に取り尽くそうが蜜柑山は蜜柑山のままです。心地よい敗北感。捥ぎ取っても捥ぎ取っても蜜柑はたわわに陽光を受け、陽光そのものの色彩と香りを恵み続けています。掲句では「ありけり」が二重に効いていて、かごの中の蜜柑の存在を示す過去の「けり」と、今、距離を置いてふり返った蜜柑山への詠嘆の「けり」です。「蜜柑」という語もふくめて巧妙に一句の中で反復をくり返して、鈴なりの蜜柑を表出しているように読みました。『櫻館』(2122)所収。(小笠原高志)


November 30112013

 嬰のまはりはことばの華よ冬満月

                           熊谷愛子

には、やや、とふられている。泣き声と話し声、生まれたばかりの赤子を包む幸せがまず音として感じられ、それから風景となって見えてくる。花を思わせる、嬰、の文字と、華、が呼応しているところに、冬満月の円かでありながら冴え冴えとした光が加わって余韻を生む。二人の子を持つ友人がだいぶ離れた三人目を授かった時、二人でいいかなって思っていたのだけど、赤ちゃんを囲んでいる時の家族がなんだかなつかしくなったの、と言っていたのを思い出す。生まれたての命は無条件に幸せをもたらしてくれるのだろう。前出の友人の末娘も大学生、甘やかされているはずが二人の兄より強く逞しく、ずっと母を幸せにしている。『旋風』(1997)所収。(今井肖子)


November 29112013

 ぼんやりと晩秋蚕に燈しあり

                           波多野爽波

は、本来、春季であるが、晩夏から晩秋にかけて飼育されるものを「秋蚕」という。春と比べて、飼育日数も少ないが、繭の品質は劣るという。晩秋の蚕がぼんやりと照らされている。おそらく、裸電球であろう。照らされている蚕は、ただ、ひたすら桑の葉を食べているが、それを見つめている作者の意識は、朦朧と揺らぐような感覚の中へ誘われる。波多野爽波は、俳句において『農』のくらしを詠むことの重要性を、しばしば説いた。しかしながら、この句には、農のくらしへの親和感は微塵もうかがえない。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)




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