December 122013
寒卵割つてもわつても祖母の貌
玉田憲子
レヴィナスは他者の顔と出会うことが自分の生を見いだす契機になると説く。自分の支配に取り込もうとしてもできない他者の顔、特にそのまなざしは不可侵であり根源的な問いかけを持って相手の目をじっと見返す。寒卵をいくつも、いくつも割る。滑り落ちた黄身に重なって祖母の顔が浮かび上がってくる。これはなかなか怖い。寒卵は、「寒中には時に栄養豊富で生で食べるのが良い」と歳時記にある。とすると、祖母は自分の顔を食べろと寒卵の中から現れるのか。祖母が向けるまなざしはどんな感情を含んでいるのだろう。寒卵を二つに割るたび浮かび上がる祖母の顔。思いもかけぬときに生々しく蘇ってくる肉親の顔は、寂しく、孤独で、生きているうちに伝えきれなかった思いを無言で問うてくるかのようだ。『chalaza』(2013)所収。(三宅やよい)
December 112013
学ぶときをいとほしんで冬ごもり
三遊亭らん丈
冬の寒さを避けて暖かい屋内にこもることを、「冬ごもり」は意味している季語だが、今日では交通機関や施設を含めて、どこでも暖房が効いている。また一般の人は冬だからと言って、とじこもって外出しないわけにいかない日々でもある。「冬ごもり」はきれいな響きをもつ言葉で好きだけれど、私たちの生活実感としてあまりピンとこない季語になってしまっている。もともと草木も花も葉もなく、霜雪に埋もれていることを「冬籠」とか「冬木籠」と称していたものらしい。句の意味合いは、冬ごもりして、じっくり時間をいとおしむようにして、いろんなことを学ぶことに精出す、勉強するということであろう。らん丈は三遊亭円丈の一番弟子で真打。早稲田大学と一橋大学それぞれの大学院で学んだというインテリ。このごろは大学卒などのインテリさんが多い。「学ぶ」と落語家は一見釣り合わないようだけれど、前座・二ツ目の修業時代からして学ぶことは多いのだから、「学ぶ」が不自然というわけではない。石田波郷の句に「背に触れて妻が通りぬ冬籠」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)
December 102013
やがて地に還る身をもて受ける雪
赤坂恒子
雪を愛してやまなかった研究者中谷宇吉郎は「雪は天から送られた手紙である」と書いた。同じ生い立ちでありながら、地面に叩きつけられるのが雨なら、雪はゆらりゆらりと軽やかに宙をさまよう。空から舞い降りる雪に触れると、清らかなものに生まれ変わることができるような気持ちがわきあがる。それは純白の雪の美しさとともに、すべてを白一色に覆い尽くしてしまう自然の力を畏れ、崇める心が働くからだろう。「雪ぐ」は「すすぐ」と読み、祓い清めるという意味を持つことを思うと、掲句の「やがて地に還る」とは、生物の逃れることのできない運命であるが、聖なるものの前でつぶやく懺悔の姿にも見えてくる。『トロンプ・ルイユ』(2013)所収。(土肥あき子)
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