NHKの番宣がひどい。何が何でも紅白をとやられると、かえって。(哲




2013ソスN12ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 30122013

 何時の間に冬の月出てゐる別れ

                           稲畑汀子

書に「昭和二十八年十二月」とある。年も押し詰まってきての「別れ」は、作者か相手どちらかの、よんどころない事情によるそれだろう。しかもいま別れると、もう当分会えそうもない。なかなかに別れ難くて縷々話し込んでいるうちに、ふと窓外の闇に目をやると、いつの間にか、冷たく輝く冬の月がかかっていた。美しいというよりも、凄まじい冷ややかさを湛えている。二人の話が深刻だっただけに、余計に冷たさが増幅して感じられたのだ。余談になるが、私は最近、ほとんど月を見ることがない。名月だの満月だのと周囲に言われても、結局は見逃してしまう。理由はしごく単純で、めったに夜間は外出しなくなったからだ。月を愛でることよりも、夜道での転倒のほうが怖いのである。その昔に、「侍だとて忘れちゃならぬ、それは風流、風流心」なんて流行歌もあったっけ。ましてや侍でもない当方としては、だんだん身の置き場がなくなってくる。『月』(2012)所収。(清水哲男)


December 29122013

 はらわたの卵をこぼし柳葉魚反る

                           三宅やよい

る12月21日に行なわれた、第110回「余白句会」の兼題が「柳葉魚(シシャモ)」でした。私はシシャモの産地で育ったので、冬、学校から帰るとシシャモを石炭ストーブの金網にのせて、ひっくり返して、かなり無造作にムシャムシャ食べていました。かつて、私の身体の何%かは、シシャモでできていたのですが、俳句の兼題に出されてみるとむずかしく、たまたま実家に所用ができたことを渡りに舟として、釧路までシシャモを仕入れにいきました。しかし、食べ物としてみていたシシャモを句にするのは困難で、駄句を携えて句会に出席したとき掲句に出会い、膝を叩きました。シシャモの雌は、体の1/4程が卵です。また、養分の半分以上を卵に費やしているでしょう。シシャモの雌の本質は、「こぼれる」ほどの卵をぎりぎりまで増殖するところにあり、焼くと「反る」うごきにつながります。今井聖さんが掲句を高く評価したうえで、「『はらわた』は消化器官を指す語だから生殖器官の卵には付かないのではないでしょうか」と疑問を呈され、精緻な読み方を学びました。句会では掲句が天、地に「火の上の柳葉魚一瞬艶めける」(土肥あき子)。私が狙い撃ちされて天を入れたのが「啄木の釧路の海よ!シシャモ喰う」(井川博年)でした。なお、句会の後の忘年会では、お店に無理を言って釧路より持参したシシャモを炭焼きにして皆でいただきました。清水哲男さんが「シシャモ、うまかったー」。(小笠原高志)


December 28122013

 焼藷がこぼれて田舎源氏かな

                           高浜虚子

前初めて『五百句』を読んだ時、その一句目が〈春雨の衣桁に重し戀衣〉で、いきなり恋衣か、と思ったが、必ずしも自分の体験というわけではなく目に止まった着物から発想したのだと解説され、え、そういう風に作っていいの、と当時やや複雑な気分になった。その後「戀の重荷」という謡曲をもとにしていると知り、昔の二十歳そこそこはそういう面は大人びているなと思いながら、恋衣と春雨にストレートな若さを感じていた。掲出句の自解には「炬燵の上で田舎源氏を開きながら燒藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の繪の上にこぼれた焼藷」とある。ふと垣間見た光景だろうか、五十代後半の作らしい巧みな艶を感じるが、春雨と恋衣、焼藷と光源氏、対照的なようでいて作られた一瞬匂いが似ている。『喜壽艶』(1950)所収。(今井肖子)




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