リ檀句

January 0112014

 元日の富士に逢ひけり馬の上

                           夏目漱石

れあがって、雪を頂いた富士がことさら近くに感じられるのだろう。実際は富士を遠くから眺めているのだけれど、晴れ晴れとして実際よりも距離が近くに感じられるのだ。だから、驚きと親愛感をこめて「逢ひけり」と詠んだ。この表現の仕方が功を奏している。元日の富士の偉容が晴れがましいせいだろう、対象をグンと近くに引き寄せている。「馬の上」という下五は「作者が馬に乗っている」のか、それとも「馬の背越し」に富士を眺望しているのか、両方に解釈することができる。元日のことなのだから、馬の背に颯爽と高くまたがって富士を見ている、と私は解釈したい。そのほうが元日らしくて気持ちもいい。新幹線の窓越しに眺めていたのでは、この句のゆったりとして新鮮な勢いは生まれてこない。漱石の正月の句に「ぬかづいて曰く正月二日なり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 0812014

 信濃路の餅の大きさはかりけり

                           室生犀星

の昔、わが家で搗いた餅は硬くならないうちに、祖父がなれた手つきで切り餅にした。その切れ端をそのままナマで食べると、シコシコしておいしかった。大きさは市販の切り餅に比べるとスマートではなく、だいたい大きめだった。小学生のころ正月の雑煮餅は、自分の年の数だけ食べるよう母に言われたものである。八歳で八個、十二歳なら十二個ーー無茶な! 正月とはいえ、モノがなかった戦後の田舎のことだから、正月のおやつは餅とミカンくらいしかなかった。だから雑煮を無理やり年の数だけ食べて腹を一杯にするという、とんでもない正月を過ごしていた(昼飯抜き)。そのせいか今も餅は大好き。さて、犀星は信濃路で出された田舎の餅の大きさに驚いたのだろう。まさか物差しで大きさを実際に測ったわけではあるまいが、「都会の餅に比べて大きいなあ!」と驚いているのだ。昭和二十一年一月の作というから、戦時中に比べ食料事情が少し良くなってきた、そのことを餅の大きさで実感してホッとしているのだろう。同じ時に作った句に「切り餅の尾もなきつつみひらきゐる」がある。不思議な句である。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1977)所収。(八木忠栄)


January 1512014

 水仙の花に埃や小正月

                           藤森成吉

のことを知っている人は少ないと思われるが、元日から始まる正月が「大正月」と呼ばれる。それに対して、1月14〜16日は「小正月」と呼ばれるということ。私も「大正月」という呼び方は知らなかった。「大正月」の終わりの日が「小正月」になる。また「大正月」が「男正月」とも呼ばれるのに対し、「小正月」は「女(め)正月」とも呼ばれる。この呼び方は知っていた。現在ではどうなっているかわからないが、この日に女性だけで酒盛りをする地方もあったとか。私が子どものころ、この日ばかりは父が朝飯を炊いていたことを記憶している。「女は休んで、男が台所をする日」と教わった。へえ。働き者の母はちゃんとゆっくり休んでいたのだろうか? 「女正月」は年末年始に格別忙しかった女性を、慰労する意味があったものと思われる。毎日、きちんと水仙の面倒を見ていた女性が、この日ばかりは休んでいるから、水仙の花にうっすらと埃がついているというのだろう。どことなくのんびりした雰囲気が漂っていて、結構な風習じゃないか。左翼文学者だった成吉は短歌や詩も作ったが、俳句も多く句集が二冊ある。他の句に「犬さきにもどりて行くや出初式」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2912014

 生き死にの話ぽつぽつどてら着て

                           川上弘美

ういう句に惹かれるのは、こちらが齢を重ねたせいだろうな、と自分でも思う。若い人がこの句の前で立ち止まるということは、あまりないのではあるまいか。(こんな言い方は、作者に対して失礼だろうか?)それにしても「どてら」(褞袍)という言葉は、一部の地方を除いてあまり聞かれなくなった。今は「たんぜん」(丹前)のほうが広く使われている呼称のようだ。呼び方がちがうだけで、両者は同じものである。『俳句歳時記』(平井照敏編)では「広袖の綿入りの防寒用の着物。江戸でどてらと呼び、関西で丹前と呼んだが、いまは丹前と呼ぶのが普通である」と明解である。雪国育ちの私などは「どてら」と呼んでいた。何をするでもなく、お年寄りが寄り合えば、生きてきた過去の思い出、先に亡くなった仲間のことが話題になり、おのがじし溜息まじりに明日あさってのことを訥々とぽつぽつ口にのぼせながら、うつろな目つきで茶などすすっているのだろうか。「どてら」はお年寄りにゆったりとしてよく似合う。どことなくオシャレ。ここは「丹前」でなくて、やはり「どてら」だろう。弘美の同時発表の句に「球体関節人形可動範囲無限や海氷る」という凄まじい句がある。句集に『機嫌のいい犬』(2010)がある。加藤楸邨の句に「褞袍の脛打つて老教授「んだんだ」と」がある。「澤」(2014.1月号)所載。(八木忠栄)


February 0522014

 ひらがなの筆跡で舞う細雪

                           葛西 洌

(俳号:洌浪)は青森市に生まれ、三十五歳頃まで青森県で過ごしていたから、その地に降っている雪のことを詠んでいるのかもしれない。「細雪」は書いて字のごとく細かい雪である。雪には綿雪・牡丹雪・粉雪・細雪など、気温や土地によってさまざまな結晶の仕方があり、形状もいろいろであることは言うまでもない。「ひらがなの筆跡」のたとえはきれいだ。そのように細かく、途切れることなく、軽く繊細にしなやかに「舞う」とうわけである。漢字のようにどっしりして、またカタカナのようにきらびやかでトゲトゲしい雪ではない。洌がひらがなにこだわった詩がある。その一節に「ひらがなでもの想う日は/もっと遠くを見ていたい//遠くを見るということは/さらにその先に続く道があり/道の先は/ひらがなの筆跡のように切れることがない/……」(「もっと遠い所」)とある。彼は「ひらがな」という語に心とらわれていた時期があったらしい。他に「ひらがなでもの想う朝梅実る」がある。2013年に七十六歳で亡くなった。「長帽子」75号(2013)所載。(八木忠栄)


February 1222014

 春銀座また出し忘れたる葉書ここ

                           永井龍男

季を問わず、投函するつもりの葉書をカバンに入れたまま投函するのを忘れてしまい、帰宅してから「しまった!」と気がつくという経験は、どなたにもあると思う。私にも何回か同じような経験があるし、ひどい時は葉書を二日間持ち歩いたなんてこともある。掲句は「また」というから、一回や二回の失敗ではないのだ。あの謹厳そうな表情をした龍男が「また、やっちゃった!」というのだから、どうにも可笑しい。本人の苦笑が見えるようだ。春の銀座だから陽気も良くて、いろいろなモノやコトに気を取られてブラブラしているうちに、つい投函しそこなった葉書を「まだ、ここにあった」と帰宅してから確認して頭をかいている図である。「ここ」というリアリティーが効果的である。銀座あたりを歩く場合にはできないことだが、私はいつも利用している駅へ行く途中にポストがあるから、投函を忘れないために郵便物はカバンなどにしまわず、手に持ったまま家を出てポストの前を通ることにしている。手に持ったまま忘れてしまうことは、まだ今のところない。龍男の春の句に「立春や王将は豊かに厚し」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 1922014

 湯豆腐の湯気に心の帯がとけ

                           金原亭馬生(十代目)

気をあげて徐々に煮えてくる湯豆腐。それを前にして、一杯やっている人の幸せそうな様子が伝わってくる。「湯豆腐」も「湯気」もやさしい道具だてである。また「心の帯」という表現がすばらしい。湯気が立つにしたがって、それまで自分の心を締めつけ縛りつけていた〈帯〉が、ようやくゆるんで行くという経過であろう。寄席の高座か、何かの用事が済んで、ホッとして好きな酒で気持ちを解放し、コップでちびちびやっている。煮える湯豆腐を待っている心やさしい馬生の、背を丸くしたあの姿が目に見えるようである。戦争末期、父・志ん生が満州へ行ってしまい、長男として若いうちから寄席でも生活面でも、苦労の多かった落語家である。自分の弟子は落語の弟子なのだからと、家で余計な仕事をあまりさせなかったと言われる。落語会で前座が間に合わないと、真打ちの自分が率先して出囃子の太鼓を叩いたこともあった、そういう人であった。酒肴をあれこれたくさん並べたてず、食も細く、静かに好きな酒(菊正宗)をちびちびと飲んだ。踊りの名取りであったこともあって、その高座姿、立ち居振る舞いは穏やかできれいだった。志ん生、文楽、円生をはじめとする寄席芸人たちの川柳の会「川柳鹿連会」に10年以上属していた。馬生の句はたくさんあるけれど、他に「鍋の中 話とぎれてネギを入れ」がある。石井徹也編著『十代目金原亭馬生』(2010)所収。(八木忠栄)


February 2622014

 春寒し荒海に入る川一つ

                           安藤一郎

の上で立春は過ぎても、春にはまだ寒さが残っているし、都心でさえ雪が降る。「春寒」も「余寒」も似ているけれど、「春寒」は寒さよりも春の方にウエイトがかかっていて、同じ春の寒さにも微妙なちがいがある。そこに俳句の生命がある。掲句における「海」や「川」は、具体的にどこの海や川を指しているのかわからないが、「荒海」だから北のほうの海だろう。まだ寒さは残っているけれど、ようやく春をむかえていくぶん海の冷たさもやわらぎ、そこへ春の川が地上の春をからめて流れこんでいる、といった図である。この句によってたいていの人は、芭蕉が『おくのほそ道』の酒田で詠んだ句「暑き日を海にいれたり最上川」を想起するにちがいない。いや、作者の頭にも季節はちがうけれど、この句があったとも推測される。芭蕉の句は「日本海」と「最上川」が具体的に見えていて際立っている。それに比べると掲句は漠然としている分弱いように思う。英文学者だった一郎は、村野四郎や北園克衛ら何人かの詩人たちと、昭和十年代に句誌「風流陣」のメンバーだった。一郎の句は他に「摘草の菫しをるゝ疲れかな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0532014

 しつけ絲ぬく指さきの余寒かな

                           奥野信太郎

つけ(躾/仕付)絲を辞書で引いたら、「絹物用にはぞべ糸、木綿物用にはガス糸」とあった。これがまたわからない。さらに調べると、「ぞべ糸」とは片撚りをした絹糸であり、「ガス糸」とは木綿糸表面のばらけ繊維をガスの炎で焼いて光沢を生じさせたものである、という。初めて知った。春になって新しくおろす着物(和・洋)のしつけ絲を器用に抜く、その人の指先には春とはいえ、まだ冬の寒さが残っているのだろう。子どもの頃、特別な日に新しくおろしてもらって着る衣服のしつけ絲を、母がピッピッと小気味よく抜いてくれたことを覚えている。さあ、暦の上では立春。ようやく春がやってきたけれども、実際にはまだ寒さは残り、女性の細い指先も、春先の冷たさを少し残しているように感じられるのだろう。しつけ絲を抜いてもらう喜びが、「余寒」のなかにもひそんでいるようだ。信太郎には、他に「炭はねて臘梅の香の静かなる」という句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 1232014

 ひとり酒胡麻すれ味噌すれ蕗の薹

                           多田道太郎

けいな気を遣わなければならない相手と酒を酌むよりは、ひとり酒の方がずっといい。気の合う相手であっても、やはりくたびれることがある。その時の気分でひとり静かに徳利を傾けたいこともある。主(あるじ)であるわれは、ひとり酒を楽しんでいるのだろう。いや「……すれ……すれ」と命じている様子から、気持ちが妙に昂じているのかもしれない。近くにはべる気易い相手に、蕗の薹をおいしく食すにあたり、「胡麻すれ味噌すれ」とわがままを言っているのだ。「勝手になさい!」ではなく、命令をきいてくれる「できた相手」がいれば、これにまさる美酒はあるまい。おいしそうな春到来。わがままを承知のうえで、酒呑みはそうした言動に出ることが多い(酒呑みの自己弁護に聞こえるかなあ)。「どうせ、酒も蕗の薹もひとり占めして、さぞおいしいことでしょうよ。フン」という呟きも、どこかから聞こえてきそうである。たいていの呑んべえは、じつはひそかに気を遣っている、かわいい男ではないのかしらん?(もちろん赦しがたい例外もあろう。)道太郎先生は大酒呑みではなかったが、楽しんでいた。小沢信男をして、その句を「飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」と言わしめた道太郎ならではの「お手並み」で、まこと飄逸な詠みっぷりですなあ。他に「老酔や舌出してみる春の宵」がある。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


March 1932014

 永すぎる春分の日の昼も夜も

                           江國 滋

月20日頃が春分の日とされる。母からは昔よく、この日を「春季皇霊祭」と聞かされた。戦前はそう呼ばれた宮中行事の一つだったが、今はその名称が語られることもなくなってきた。「自然をたたえ、生物を慈しむ日」と説明されている。知られている通り、滋は食道癌で1997年2月に入院した。入院してからさかんに俳句を作ったが、掲出句は同年3月20日に作られた六句のうちの一句。入院して病気と闘っている者にしてみれば、昼が夜よりも永くても短くても、いずれにせよ永い時間を持て余しているわけである。辛口で知られた滋らしい忿懣・不機嫌をうかがわせる句である。昼となく夜となく、ベッドの上で過ごしている病人にとっては、寝る間も惜しんで働く健康な人が羨ましいというか、恨めしい。3月19日の句に「『お食事』とは悲しからずや木の芽どき」がある。わかるわかる。滋は滋酔郎の俳号をもち癌と闘ったけれど、同年8月、62歳で亡くなった。『癌め』(1997)所収。(八木忠栄)


March 2632014

 夜明けまづ山鳩鳴けり弥生尽

                           瀧井孝作

い寒いと言っているうちに、3月も終わる。今冬は異常気象と騒がれた日本列島、それでもようやく花は咲きはじめ、桜前線は北上している。山里か村里か、本格的な春をむかえた夜明け方、いち早く山鳩が一日のはじまりを告げるように低く鳴く。本格的な春=花の時節になって、あたりは活気をとり戻す。まだ「春眠暁を覚えず……」の季節だが、山鳩の声でやおら眠りから覚めた人のこころにも、春は遠慮なく踏みこんでくる。山鳩の一声につづいて、あたりにはさまざまな生命の音・生活の息吹が徐々に立ちあがってくるーーそんな光景を予感させてくれる句である。句作を多くした孝作には、「ビルディングみな日向なり暮れ遅き」「海苔あぶる手もとも袖も美しき」などの春の句がある。『瀧井孝作全句集』(1974)所収。(八木忠栄)


April 0242014

 掃除機を掛けつつ歌ふ早春賦

                           美濃部治子

子は十代目金原亭馬生の奥さん。つまり女優池波志乃の母親である。いい陽気になってきて部屋の窓を開け放ち、掃除機を掛ける主婦の心も自然にはずんで、春の歌が口をついて出てくる。♪春は名のみの風の寒さや/谷のうぐいす歌は思えど……。掃除をしながら歌が口をついて出てくるのも、春なればこそであろう。大正2年、吉丸一昌作詩、中田章作曲によるよく知られた唱歌である。治子は昭和6年生まれの主婦だから、今どきのちゃらちゃらした歌はうたわなかったかもしれない。考えてみれば、落語家の家のことだから、掃除は弟子たちがやりそうなものだが、馬生夫婦は弟子たちには、落語家としての修業のための用しかさせないという主義だった。だから家のことはあまりやらせなかったというから、奥さんが洗濯や掃除をみずからしていたのだろう。志乃さんがそのことを証言している。いかにも心やさしかった馬生らしい考え方、と納得できる。治子は黒田杏子の「藍生」に拠っていたが、平成18年に75歳で亡くなった。春の句に「職業欄無に丸をして春寒し」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)


April 0942014

 いつの間に昔話や春灯(はるともし)

                           塚田采花

夏秋冬、灯りはそれぞれに明るいとはいえ、ニュアンスに微妙なちがいがある。とりわけ春の灯りは明るく暖かく感じられるはずである。作者は越後の人であるから、雪に閉じ込められていた永い冬からようやく抜け出しての春灯は、格別明るくうれしく感じられるのである。夜の団欒のひととき、尽きることのない語らいは、ある時いつの間にか昔話にかわっていたのであろう。家族ならお婆ちゃん、他での集まりなら長老が昔話をゆっくり語りだす。もう寒くもなく、みんな真剣になって耳傾けているなかで、灯りが寄り集まった人たちを、まろやかに照らし出している様子がうかがえる。雪国育ちの筆者も子どもの頃、親戚のお婆ちゃんにねだって、たくさんの昔話を聞いたものである。きまって「昔あったてんがな…」で始まり、「…いきがぽーんとさけた」で終わった。「もっと、もっと」とせがんだものである。采花の他の句に「一つの蝶三つとなりし四月馬鹿」がある。『独楽』(1999)所収。(八木忠栄)


April 1642014

 凧三角、四角、六角、空、硝子

                           芥川龍之介

は正月に揚げられることが多いことから、古くから春の行事とされてきた。三角凧、四角凧、六角凧、奴凧、セミ凧、鳥凧……洋の東西を含めて種類も形も多種多様だが、この時代のこの句、晴れあがった春の空いっぱいにさまざまな凧があがっているのだろう。名詞を五つならべて「、」を付した珍しい句だが、「硝子」とはこの場合何だろうか? 空にあがったさまざまな形の凧が、陽をあびてキラキラして見えるさまを、あたかも空に硝子がはめこまれているように眺めている、というふうに私は解釈する。また凧合戦で相手の凧の糸を切るために、糸に硝子の粉を塗って競う地方があるというけれど、その硝子の粉を指しているとまでは考えられない。私が生まれ育った雪国では、雪のある正月の凧揚げは無理で4、5月頃の遊びだった。上杉謙信などの武者絵の六角凧がさかんに使われていた。私の部屋の壁には森蘭丸を手描きした六角凧が四十年近く前から飾ってあり、今も鋭い目をむいて私を見下ろしている。掲句は大正5年、龍之介25歳のときの句だが、同じころの句に「したたらす脂(やに)も松とぞ春の山」がある。『芥川龍之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


April 2342014

 ゆく春やあまき切手の舌ざはり

                           吉岡 実

句のシロートには「ゆく春や」で、何十句も出来そうな気がしないでもない。いっちょうやってみるか……冗談はよせよせ。切手は糊や水を用いるなど、一定の貼り方があるわけだが、舌でぺろりとなめてぺたんと貼るーーこれが一番いいと私は思うし、実践している。気取っていなくて手っ取り早い。お行儀は悪いけれど、不潔でしょうか? 切手の糊はもちろん「あまい」わけではないが、手紙の内容によっては「にがい」場合もあるだろう。晩春のころに、誰に出す手紙かは知らないけれど、行く春をそっと惜しむうっすらとした感傷のこころが読みとれる。同時にいい加減な手紙ではなく、気持ちのこもった手紙であろうと想像される。「あまき」を味ではなく、下五「舌ざはり」と受けたところに、吉岡実の抜群の感性がみごとに生かされている。あの鋭い目つきの詩人が、切手をぺろりとなめている図に強い興味をおぼえる。とりわけメイルやファックスなどがなかった時代のことを、考えさせてくれる傑作である。参考までに、吉岡実にはこんな短歌があるーー「舌ざはり惜しみ白き封筒に火蛾の情慾を入れて貼り投凾す」。先ほど82円と52円の切手をなめてみたが、決して「あまく」はない。吉岡実には春の句が多い。「人形の胸ひややかにゆく春や」「春愁や瞼のうらのなまぬるき」。『赤鴉』(2002)所収。(八木忠栄)


April 3042014

 春雨や物乞ひどもと海を見る

                           横光利一

乞ひども、などという言葉遣いは、今日ではタブーであろう。「二月二十八日、香港」という前書きがあるから、かの国の「物乞ひども」であろう。利一は1936年から半年間ヨーロッパへ旅行した。途中、香港に寄っている。その時代にかの国の「物乞ひ」たちに向けられた、日本の作家の一つの態度がうかがえるようである。まだ冷たい春雨に降りこまれ、旅の無聊を慰めるように九龍の浜から、香港島を望んで目の前に広がる海をぼんやり眺めているのだろう。どこかしら心が沈んでいて、不安な気持ちが読みとれるようだ。これからヨーロッパへ向かうというのに、今の自分は「物乞ひども」といったいどれだけちがうというのか。二日前に日本で起きた「二・二六事件」のことは台湾で知ったらしい。事件のことも頭にあって、香港の海を前に茫然自失しているのかもしれない。このヨーロッパ旅行から帰国して書いたのが、代表作「旅愁」だった。俳句をたくさん残した利一が、やはり物乞いを詠んだこんな句もある、「物乞ひに松の粉ながれやむまなし」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0752014

 チューリップ明るいバカがなぜ悪い

                           ねじめ正一

ューリップは春の季語だけれど、四月から五月にかけて色とりどりに咲き出す。バカにも「明るい」と「暗い」があるのか、正一さん?ーー確かにあるのだ。「明るいバカ」と言われて、私などがすぐ連想するのは「アホの坂田」であり、落語の与太郎さんである。落語の与太郎はなくてはならないキャラクターである。その明るいバカさ加減はどうにも憎めない。単なるバカというよりも人間の虚をついたり、常識を皮肉ったりと、バカにできない面があって一筋縄ではおさまらないおバカさんである。正一がここで詠む「バカ」に私は、チューリップのように明るい落語の与太郎さんを連想せずにはいられない。暗い陰湿なバカは願い下げである。(ホラ、そういうバカが世間に時々顔を出すではないか。)下五「なぜ悪い」に居直った様子がうかがえる。即ち、ワタシばかノ味方デス。掲句は田島征三の絵と組み合わさっている最新の絵本『猫の恋』(2014)のなかの一句。まちがいなく元気の出る絵本です。他に「ビリビリっと尻尾の先まで猫の恋」など、正一らしい楽しい句と絵十五組が収められている。まともな句は一つもない(?)という凄まじさ。帯の惹句に「絵と俳句のごっつんこ」とある。(八木忠栄)


May 1452014

 地球儀のあをきひかりの五月来ぬ

                           木下夕爾

の開花→満開→花吹雪、桜前線北上などと、誰もが桜にすっかり追いまわされた四月。その花騒動がようやくおさまると、追いかけるように若葉と新緑が萌える五月到来である。俳句には多く「五月かな」とか「五月来ぬ」「五月来る」と詠まれてきた。世間には一部「五月病」なる病いもあるけれど、まあ、誰にとっても気持ちが晴ればれとする、うれしい季節と言っていいだろう。「少年の素足吸ひつく五月の巌」(草間時彦)という句が思い出される。最近の新聞のアンケート結果で、「青」が最も好まれる色としてランクされていた。「知的で神秘的なイメージがあり、理性や洗練を表現できる」という。世界初の宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という名文句があったけれど、地球儀だって見方によって、風薫る五月には青く輝いて見えるにちがいない。地球儀が青い光を発しているというわけではないが、外の青葉若葉が地球儀に映っているのかも知れない。ここは作者の五月の清新な心が、知的な青い光を発見しているのであろう。夕爾は他にも、地球儀をこんなふうに繊細に詠んでいる。「地球儀のうしろの夜の秋の闇」。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


May 2152014

 萬緑やあの日の父を尾行せむ

                           間村俊一

の花にうつつをぬかし、初夏の花にオヤオヤと見とれているうちに、いつの間にか日々ふくらむ新緑が私たちの目を細めさせる。そして萬緑がまなこになだれこむ季節の到来である。掲句の中七〜下五の中味は穏やかではない。そのくせどこかしら「フフフフ」とわいてくるモノがある可笑しさ。「あの日の父」に何があったのかは誰にもわからない。しかし、たしかに何かしらあったのだ。オトナにはオモテがあればウラがある。「その日」すぐにでなくとも、のちのちずっと「父を尾行せむ」という気持ちが消えることはない。ナゾが残れば残るほど、尾行したい気持ちはつのるいっぽうであろう。「いやいや、尾行なんかしたくない」という気持ちもいっぽうにはあろう。何かしらあったにせよ、なかったにせよ、父を探ってみたい気持ちが息子にあるのは何ら不思議なことではない。しかも萬緑がむせるような季節である。ひそかに尾行されている父よ、父を尾行している息子よ、両人とも十分お気をつけくださいまし。生まれる二ヶ月前に父を亡くした私などには、加齢とともにそれとなく、日々まぼろしの父を尾行しているような気持ちがしている。俊一には、他に父を詠んだ「はゝこ草父の知らざる母の嘘」がある。『抜辨天』(2014)所収。(八木忠栄)


May 2852014

 大いなる雲落ち来る夏野かな

                           会津八一

の晴れあがった日の平野部。見渡すと東西南北ぐるりとまんべんなく彼方に、雲がもくもく盛りあがっている。視界いっぱいの夏だ。白い雲が鮮やかにまぶしく湧いているぶんには結構だけれど、それがにわかに黒雲に変貌したりして、突然冷ややかな風が起こってくると、昨今の気象は雹が降ったり、雷雨や竜巻が発生したりして油断ができない。「大いなる雲」はぐんぐん盛りあがっていたかと思うと、大瀑布が襲いかかるように、夏野にかぶさるように、容赦なく天から「落ち来(きた)る」というのだ。まさに「落ち来る」。高く広々とした夏野のダイナミズムに、圧倒されるようである。それまで夏野に散らばっていた人びとは、あわてて走り出しているのかも知れない。こんな光景を前にしたら、書家・八一先生は「雲」という文字をどんなふうに書きあげただろうか、と妙な興味をそそられる。まさに「大いなる」句姿である。掲句と並んでいて対になるような句「白雲の夏野の果てや村一つ」は、同じときの作かと思われる。『新潟県文学全集』第II期6(1996)所収。(八木忠栄)


June 0462014

 夏衣新仲見世の午下り

                           北條 誠

のごろの夏の衣服は麻やジョーゼット(うすもの)をはじめ、新しく開発された繊維がいろいろと使われて、清涼感が増してきている。かつての絽、紗、明石、縮緬などは、いずれも軽くて涼しいものだ。「夏服」ではなく「夏衣」というから、ここでは和服であろう。いかにも浅草である。にぎやかな仲見世通りとちがって、そこに交差するむしろ幾分ひんやりとした通りである。昼下りののんびりとした新仲見世通りの静けさを、夏衣に下駄履きのお人が、軒をならべる店をひやかしながら歩いているのだ。お祭りどきの浅草は、路地にも人が入りこんでごった返してにぎやかだが、ふだんは静かで睡気を催したくなるような空気が流れている。新仲見世と言えば、老舗「やげん堀」本店の七味唐辛子。浅草へ行ったら、私は必ずここに立ち寄って好みの辛さを調合してもらうことにしている。また、お向かいの「河村屋」の玉ネギのたまり漬けなどは珍しくて、おいしさもこたえられない。浅草でひとりちびりちびりやる昼酒……おっと、横道へ入りこんでしまいそう……。誠の句に「永代の橋の長さや夏祭」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1162014

 月山の水に泳げや冷奴

                           丸谷才一

と水と冷奴ーー文字づらからして、涼味満点と言っていい夏の句である。敢えて「夏は冷奴にかぎる」と、この際言わせてもらおう。月山の名水に月のように白く沈む冷奴は、いかにもおいしそうである。詞書に「うちのミネラル・ウォーターは『月山ブナの水音』といふ銘柄」とあるから、作者が愛飲していた故郷の水であろう。月山を源流とする庄内の立谷沢川は“平成の名水百選”であり、水も冷奴もいかにもおいしそうだ。「泳げや冷奴」とは「泳げや才一」という、自身への鼓舞の意味と重ねているようにも私には思われる。才一は山形県鶴岡出身の人。ここでは名水を得て泳ぐ冷奴が喜々としているように映る。そういえば、山形で私も何度か食べた豆腐は、冷奴に限らずいつもおいしかった記憶が残っている。水が上等だから豆腐もおいしいわけである。掲句は第一句集『七十句』に継ぐ遺句集『八十八句』(2013)に収められている。長谷川櫂の選句により、104句が収められた非売品。才一の俳号が「玩亭」だったところから、墓碑銘も「玩亭墓」。他に「ばさばさと股間につかふ扇かな」の句がある。(八木忠栄)


June 1862014

 梅雨樹陰牡猫が顔を洗ひ居り

                           木山捷平

が顔を洗うと雨が降る、という言い伝えを捷平は知っていて、この句を作ったのだろうか。梅雨どきだから、猫はふだんよりしきりに顔を洗うのだろうか。さすがの猫も梅雨どきは外歩きもままならず、樹陰で雨を避けながら無聊を慰めるごとく、顔を撫でまわしている。ーーいかにものんびりとした、手持ち無沙汰の時間が流れているようだ。猫はオスでもメスでもかまわないだろうが、オスだから、何かしら次なる行動にそなえて、顔を洗っているようにも思われる。猫の顔洗いはヒゲや顔に付いた汚れを取る、毛づくろいだと言われる。しとしとと降りやまない雨を避けて、大きなあくびをしたり、顔を洗ったり、寝てみたりしている猫は、この時季あちこちにいそうである。ちょっと目を離したすきに、どうしたはずみか、突如雨のなかへ走り出したりすることがある。捷平が梅雨を詠んだ句には「茶畑のみんな刈られて梅雨に入る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2562014

 金魚売買へずに囲む子に優し

                           吉屋信子

秤棒をかついで盥の金魚を売りあるくという、夏の風物詩は今やもう見られないのではないか。もっとも、夏の何かのイベントとしてあり得るくらいかもしれない。露店での金魚すくいも激減した。ネットで金魚が買える時代になったのだもの。商人(あきんど)が唐茄子や魚介や納豆や風鈴をのどかに売りあるいた時代を、今さら懐かしんでも仕方があるまい。小遣いを持っていないか、足りない子も、「キンギョエー、キーンギョ」という売り声に思わず走り寄って行く。欲しいのだけれど、「ください」と言い出せないでいるそんな子に対して、愛想のいい笑顔を向けている年輩の金魚売りのおじさん。「そうかい、いいよ、一匹だけあげよう」、そんな光景が想像できる。金魚にかぎらず、子どもを相手にする商人には、そうした気持ちをもった人もいた。いや、そういう時代だった。掲句には、女性ならではのやさしい細やかな作者の心が感じられる。信子には多くの俳句がある。「絵襖の古りしに西日止めにけり」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)




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