O謔「句

January 0212014

 恵方から方向音痴の妻が来る

                           斉田 仁

方は「正月の神の来臨する方角」、その年の「歳徳神(とくとくしん)」のいる方角を表す。初詣はもともとその年の恵方の社寺にお参りする「恵方参り」だったそうで、本年は東北東のやや右が恵方になるという。そう言われても東西南北もろくにわからない方向音痴の妻には関係ないだろう。そんな妻が年神さまと一緒の方角からやってくる。たまたまだろうけど、何だかめでたいおかしさだ。私も、デパートに入って違う出口から出ただけでたちまち方角がわからなくなる「方向音痴の妻」の一人だけど、今日ぐらいは頑張って恵方にある社寺を探し初詣に行ってみたい。『異熟』(2013)所収。(三宅やよい)


January 0912014

 その前にデートせえへん?宵戎

                           児玉硝子

売繁盛のえびす様。宵戎へ出かけるのを口実に「デートせえへん」とお目当ての人に声をかける。断られても気軽に誘った分ショックも少なくてすむ。そんな気持ちも関西弁の語り口調に感じられる。宵戎の人波をくっついて歩く頃にはすっかり仲良くなって、お連れさんが別嬪な福娘に見とれたら「ちょっといいかげんにしいや」と手を引っ張ったりするんだろうか。西宮戎では宵戎の1月9日深夜12時に神社の門を閉じ、翌朝大太鼓を合図に表大門が開かれると男たちが一斉に走り出し、一番乗りが福男になる。「えべっさん」の賑わいは関西の明るさのようで、毎年懐かしく眺めている。『青葉同心』(2004)所収。(三宅やよい)


January 1612014

 孫を抱く孫は猫抱く炬燵かな

                           柳沼新次

いなぁ。おじいちゃんの膝にすっぽりはまる孫の暖かさ、孫の腕の中で眠る猫はすやすや。団子のように身を寄せ合ってあったまるのが冬の楽しみ。マンション暮らしの床暖房で長らく炬燵と無縁の生活をしている私などは、ほのぼのとした炬燵の風景に憧れてしまう。炬燵の上にはミカンがあって、孫のぬくもり猫のぬくもりが心地いい。掲句が収録されている句集の多くは介護度5の妻を支える日常を静かな心で受け止め詠んだ句が多い。「三十歩歩けた妻にポインセチア」「羽布団横掛けにして二人して」それと同時に老年を来て小春日和のようなひとときがある喜びをこれらの句から感じることが出来る。『無事』(2013)所収。(三宅やよい)


January 2312014

 地吹雪や嘘をつかない人が来る

                           大口元通

とはあまり縁のない土地で育ったせいで、吹雪の中を歩いた経験はない。「素人が吹雪の芯へ出てゆくと」と櫂未知子の句にあるように、方向さへ見失う吹雪は恐ろしいものだろう。では吹雪と地吹雪はどこが違うのだろう?手元の歳時記を引くと「地吹雪は地上に積もった雪が風で吹き上げられること。地を這うような地吹雪と天を覆うまで高く吹き上げられる地吹雪がある」と説明されている。天から降ってくる雪ではなくて、風が主体になるのだろうか。逆巻きながら雪を吹き上げる風の中、身をかがめ一歩一歩足元を確かめながら歩いてくる人、「嘘をつかない人」だから身体に重しが入って飛ばされないというのか、。誇張された表現が地吹雪を来る人の歩み方まで想像させる。ならば嘘つきは軽々と地吹雪に飛ばされてしまうのか、子供のとき読んだ「ほら吹き男爵」の話を思い出してしまった『豊葦原』(2012)所収。(三宅やよい)


January 3012014

 青空の雫集めて氷柱かな

                           齋藤朝比古

国の暮らしに、軒先に伸びた氷柱は時に危険なものになりかねず、その始末も大変だろう。しかし家の内側から空を見上げる角度に垂れ下がり、夜空の星や、空の光を受けてきらきら光る氷柱はとてもきれいだ。屋根に積もった雪が家から伝わってくる熱に溶かされて軒先から少しつずつ滴る。その滴りがだんだんと凍ってゆき、軒先に棒状の氷柱が伸びてゆく。空から来た雪が解けて氷柱になる不思議、「青空の雫」という表現にそうした来歴ばかりでなく雪晴れの空を封じ込めてうす青く光る氷柱の美しさを感じさせる。『累日』(2013)所収。(三宅やよい)


February 0622014

 流氷が見たくて飴を舐めてをり

                           喜田進次

年も流氷が確認されたと、ニュースでやっていたが接岸はいつだろう。本物の流氷はまだみたことはなくて思い浮かぶのはテレビドラマ「北の国から」で消息不明になったトド撃ちに扮した唐十郎が流氷を渡って港へ帰って来るシーンだ。流氷って人が乗っても大丈夫なんだろうか、トドやあざらしは流氷に乗って旅するんだろうか。流氷ははるか北への旅情をかきたてる。舌の上になま温かく飴を転がす感触とオホーツク海から来る固く冷たい流氷。距離感と質感ともに対照的な二物の取り合わせが魅力的で、私も飴を舐めながら流氷を待ってみたい。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


February 1322014

 春疾風聞き間違へて撃つてしまふ

                           野口る理

の突風はかなりのものだ。気象協会が出している『季節と暮らす365日』によると「初春は春と冬がせめぎあい、日本付近を通る低気圧は発達しやすく、風が強まる」とある。春疾風は寒冷前線による嵐で、このあとは日本海側は大雪や海難、太平洋側は乾燥や強風による大火事に警戒が必要、と記述されている。春疾風そのものが不吉な予感を含んだ季語なのだ。何を聞き間違えて引き金をひいてしまったのかわからないが、撃たれたのは人間だろうか獣だろうか。それにしたって「聞き間違へて」撃たれたらたまらない。撃たれた側は悲劇だけど、この言葉に、何とも言えない諧謔が含まれている。耳元で逆巻く春疾風の雰囲気も十分で、季語の本意を捉えつつ今までに見たことのない面白さを持った句だと思う。『しやりり』(2013)所収。(三宅やよい)


February 2022014

 春の闇自宅へ帰るための酒

                           瀬戸正洋

いていると、仕事や自分の不甲斐なさ、同僚や上司の言動などに腹が立ち、収まりのつかないまま退社する夜もあるだろう。残業して遅くなっても、すんなり自宅へ帰る気持ちになれない。外のごたごたを家に持ち込まないため感情の捨て場が必要なのだ。酒を友にして気の置けない飲み屋で気持ちを静める。そういう読み方とは別に自宅が怖すぎて、帰れないケースだってあるかもしれない。競い合うようにみんな不機嫌。こちらの場合は火宅に帰る勢いをつけるための酒と言えようか。「春の闇」の柔らかさを思うと前者と考えたいがどうだろう。いずれにせよ酒は気を晴らすかけがえのない友であることに変わりはない。乾杯!『B』(2014)所収。(三宅やよい)


February 2722014

 ひな寿司の具に初蝶がまぜてある

                           金原まさ子

ーん、ちょっと気持ちが悪い。まっさきに思い浮かべるのはちらし寿司の玉子の薄焼き。虚子の「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」から連想するのだろうか。歳時記にも春、最初に姿を見せるのは紋白蝶、紋黄蝶とあるので、可憐な薄黄色は春の色と言えよう。緑の三ツ葉、蒲鉾の赤、椎茸の黒、華やかなひな寿司に庭に飛んできた初蝶も混ぜる。彩りとしたら文句なし何だけど、蝶の羽の鱗粉だとかぐちゃっとしたおなかあたりの感触だとか想像するとぞっとする。ファンタジーぽくて気持ちが悪い、一筋縄ではいかない落差が仕込まれているのがこの句の魅力だろう。『カルナヴァル』(2013)所収。(三宅やよい)


March 0632014

 高階に飼はれし猫の春愁

                           長澤奏子

の路地を恋猫が素早く駆け抜けてゆく。マンションの高階に飼われている猫は身のうちにざわざわする恋の予感を感じつつもわけもわからずうろうろ部屋の中を歩き回るしか術がなかろう。人間だって空中に宙吊りになって暮らせば本能にかけ離れた暮らしになるわけで身体に悪そうだ。と同じマンション暮らしでも地べたに近い階に住んでいる私なぞはそんな負け惜しみを呟いてみる。低かろうが高かろうが、閉じ込められて外にでられない猫の憂鬱には変わりはないけど、高階だからこそその春愁がいっそう哀れで、艶めいて感じられる。『うつつ丸』(2013)所収。(三宅やよい)


March 1332014

 くちびると背中合わせの椿かな

                           男波弘志

つも散歩に行く近くの公園にようやく椿が咲き始めた。「背中合わせ」は二人が後ろ向きに背と背を合わせること。そこから転じて二つのものが反対向きに接している意、二つの物事が表裏の関係にあることともとれる。肉厚な椿の花とくちびる、真っ先に連想するのは濃い赤色だ。くちびると椿の間に「背中合わせ」という言葉を置いたことで唇の後ろ側に椿が咲いているような不思議な感じがする。また、くちびると椿の間に男がいるとすると、その立ち位置は。等々くちびると椿の関係についてエロっぽい想像をめぐらしてしまった。『瀉瓶』(2014)所収。(三宅やよい)


March 2032014

 蒲公英や三つ揃ひ着てヘルメット

                           榮 猿丸

付バイクにでも乗るのだろうか。この頃は三つ揃いの背広姿の人もあまり見かない。例えば建設現場を見にきた重役なら上等そうな三つ揃いスーツにヘルメットという姿はありそう。だけど、そんな重さは蒲公英に似つかわしくない。ここは可憐な蒲公英との取り合わせで、春らしく明るいシーンが似合う。普段はTシャツにジーンズで跨がる原付に今日は三つ揃い。結婚式かパーティーか初出勤か。ヘルメットと三つ揃いのアンバランスが特別な日を感じさせる。その華やいだ気持ちを春の日差しを浴びて輝く蒲公英が引き立てている。丸く愛嬌のある蒲公英は胸元に挿しても似合いそうな。『点滅』(2014)所収。(三宅やよい)


March 2732014

 さくらさくら坂田利夫のやうな鯉

                           西原天気

っはっは、いるいる。水面にぼおーと丸い口を開けてなにやら愛嬌のある目玉がどこに焦点があっているかわからない感じで餌を待っている鯉の顔、「アホの坂田」と舞台に登場する坂田利夫の顔が二重写しになってクローズアップされる。確かに坂田利夫の底抜けの陽気さはさくら満開の春の雰囲気にぴったり。むかし吉本が今のように東京でもメジャーになる前、関西の深夜の番組で暴れまわっていたのが、坂田利夫と間寛平だった。当時は吉本興業がテレビの中心を席巻するとは夢にも思わなかった。それでも坂田利夫は昔と相変わらずのポジジョンで、池の中から時折浮かび上がってくる風情があっていい感じだ。今年の桜はいつごろが見ごろかな?『はがきハイク』(2013年5月号)所載。(三宅やよい)


April 0342014

 学生でなくなりし日の桜かな

                           西村麒麟

学や社会人になる喜びと桜を重ねた句は山ほどあるけど、この句の感慨を詠んだ句はあるようでない。既視感のある視点をずらした表現に読む者をひきつける切なさがある。学生から社会人へ移行する見納めの桜。入学式ごと、学年があがるごと見てきた桜ともお別れ。自由で気楽な学生時代が終わるということは、親に依存してきた長い子供時代の終わりでもある。これからは自分の力で世間を渡っていかなければならない。先の見えないのはいつの時代も一緒かもしれないが、通勤途上で会う新入社員とおぼしき人たちの顔つきを見ていると、これから社会に出て行く喜びより不安の方が大きいのではないかと思ってしまう。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


April 1042014

 ペンギンのやうな遠足ペンギン見る

                           仲 寒蟬

前ペンギンのコーナーでペンギンたちを見ているとき、そばでお化粧をしていた人のコンパクトの光がペンギンの岩場にちらちら当たった。すると、あちこち逃げるその光を追ってペンギンたちが連なってちょこちょこ駆けはじめた。一匹がプールに飛び込むと次々に続く。ペンギンって団体行動なんだ、とそのとき思った。幼稚園か小学校低学年の遠足か、ちっちゃい子供たちが手をつなぎあってやってくる。柵の向こう側にいるペンギンたちと同じようにちょこちょこ連なって。ペンギンを見ているのか、ペンギンに見られているのか。ペンギンも子供たちもたまらなく可愛い。『巨石文明』(2014)所収。(三宅やよい)


April 1742014

 春月の背中汚れたままがよし

                           佐々木貴子

の月が大きい。少し潤んで見えるこの頃の月の美しさ。厳しくさえ返っていた冬月とは明らかに違う。掲載句の「背中」の主体は春月だろうか。軽い切れがあるとすると月を眺めている人の背中とも考えられる。華やかな月の美しさと対照的に「この汚れ」が妙に納得できるのは月の裏側の暗黒が想起されるからだろうか。現実世界の「汚れ」を「よし」と肯定的にとらえることで、春月の美しさがより輝きすようだ。その手法に芭蕉の「月見する坐にうつくしき顔もなし」という句なども思い浮かぶ。さて今夜はどんな春月が見られるだろうか。『ユリウス』(2013)所収。(三宅やよい)


April 2442014

 風車売居座る警備員囲む中

                           榮 猿丸

楽で賑わう公園の近辺に「物売り禁止」の看板があちこちにかかっている。隅々まで管理の行き届いた都会では「街角の風を売るなり風車」と三好達治が詠んだ牧歌的光景なんてない。しかし、この句にある滑稽な哀感は今の時代ならではのもの。囲まれてだんだんと意地になってくる風車売。力づくでどかすわけにもいかず、顔を見合わす警備員の困惑ぶりを考えると何となくおかしい。どんなトラブルも少し距離をおいてみると戯画的な要素を多分に含んでいる。ささいなことなのに「まあいいじゃない」と流せないのは、今の世の中が杓子定規で余裕がないせいだろうか。そんな思惑をよそにからから回る風車。このあと風車売りはどうなったのだろう。『点滅』(2013)所収。(三宅やよい)


May 0152014

 ものを言ふ豚の尻尾や五月晴

                           大谷のり子

尾とは不思議なものだ。動物の感情表現なのだろうが、尻尾を振っているからと言って歓迎されているとは限らない。犬などは、恐怖のあまり近づくなと言っているときもあって、その場合はたいてい頭を低く構えて戦闘体制に入っており、手を出せばガブッとやられる。くるくるっとかわいらしく巻いた短い尻尾を持つ豚の場合は噛むなんてことはないだろうが、やっぱり嬉しいときに尻尾を振るのだろうか。言葉を持たない動物が気持ちを伝える健気な尻尾。養豚場でひしめくように飼われている豚しか見たことがないけど、放し飼いにされている豚もいるようで、そんな豚たちが良く晴れた草原を短い尻尾を振りながら寄ってくる様を想像すると、気持ちがいい。『豚の睫毛』(2013)所収。(三宅やよい)


May 0852014

 黄金週間終わるブラシで鰐洗い

                           斉田 仁

休明けのがらんとした動物園での一コマ。生きていても剥製のように動かない鰐だけどゴールデンウイークに沢山の人の視線を背中に集めて疲れただろう。ゴシゴシとブラシでその背中を洗われて気持ちよさそう。ゴールデンウイークを黄金週間と表記したことで「黄金」という言葉の硬質感とごつごつの鰐の背中の硬さが響き合っていい感じだ。鰐の背中を洗うブラシの音まで聞こえてきそう。「俳句が出来ないときは動物園に行ったらいいよ」と俳句を始めたころ一緒に句会をやっていた年上の俳人からアドバイスをもらった。動物は楽しい想像力をかきたててくれるからだろうか。連休明けの一日、ベンチに座って動物たちをぼんやり眺めるのもいいかもしれない。『異熱』(2013)所収。(三宅やよい)


May 1552014

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

床を子どもたちがのぞきこんでいる。その中に見かけない子がいるがどこの子だろう。句意とすればそれだけのものだろうが、このパターンは句会でもよく見かける。ベースになっているのが誰の句かな、と思っていたら素十の句だった。「苗床」が焚き火になっていたり、盆踊りになっていたり季語にバリエーションはあるけれど見知らぬ子がまじっているパターンは一緒だ。類句がつまらないのは、この句の下敷きになっている村の共同体がもはや成り立たないからだろう。子供神輿の担ぎ手がいなくて祭りの体裁を整えるのに縁もゆかりもない土地から子供に来てもらうこの頃である。子供のいない村では「どこの子か」どころではない。この句が持っているぬくもりは今や遠い世界に感じられる。『雪片』(1952)所収。(三宅やよい)


May 2252014

 初夏やきらめくわたしのフライ返し

                           関根誠子

ライ返し!日々使うことはあってもその存在自体まじまじと意識したことはない。お玉や菜箸と並んで壁に吊り下げられて出番を待っている金属のへらが初夏の光を受けてきらめいている。普段は気にも留めないフライ返しの輝きに、はっとした作者の気持ちが伝わってくる。玉子焼をひっくり返して、チャーハンを炒めてと、フライ返しは家族の食事を作るのに欠かせない道具。そう思えばほかの誰でもない「わたしの」と強調したい気持ちが同じ主婦としてよくわかる。生活の一部になっているものを季節の訪れとともに、見返して愛おしむこともこの詩形ならではの働き。ただごとに終わるか、新鮮な発見になるかは紙一重だろうが、一瞬の心の動きと愛情が読み手に伝われば十分ではないか。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


May 2952014

 風に落つ蠅取リボン猫につく

                           ねじめ正也

取リボンとは懐かしい。私が小さい頃は魚屋の店先にぶら下がっていた。同句集には「あきなひや蠅取リボン蠅を待つ」という句も並んでいる。あの頃、生ごみは裏庭に掘った穴に放り込んでいた。昼間でも暗い台所には蠅が多かった気がする。頭のまわりをうるさく飛び回っていたあの蠅達はどこへ消えたのだろう。それにしても「蠅取リボン」という名前自体が俳諧的である。真っ黒になるぐらいハエのついた汚いものをリボンと呼ぶのだから。風に翻ったハエ取りリボンが落ちて昼寝をしていた猫の背中につく。身をくねらせてリボンをとろうとするがペタペタペタペタリボンは猫の身体にまとわりつき猫踊りが始まる。追い立てられてリボンを巻きつけたまま外へ飛び出してゆく猫。そんな路地の1コマが想像される句である。『蠅取リボン』(1991)所収。(三宅やよい)


June 0562014

 優曇華やかほのなかから眠くなり

                           鴇田智哉

りにいつ陥るのか。その瞬間を見届けたいと思いつつ、寝かけたと意識した時には目覚めてしまうのがもどかしい。寝付きは自分でコントロールできないので、不眠症になると起きる時間を整えながらリズムを作るしかないという。掲句では眠気が「かほのなかから」やってくるというフレーズが魅力的だ。ぼんやりとした眠気と、柄を伸ばした優曇華の不思議な形状がほのかに通じ合う。眠気が結実すると柄の先の白い卵から夢が生まれる。優曇華にだぶらせて、言葉にできない感覚を言い当てている。掲句のような俳句を生み出すのに、作者は四六時中感覚のアンテナを張り巡らせて言葉への変換を意識していることだろう。ぼんやりした感覚を言葉で捉えるのにぼーっとしていてはダメなのだ、きっと。『こゑふたつ』(2005)所収。(三宅やよい)


June 1262014

 梅雨寒し忍者は二時に眠くなる

                           野口る理

よいよ梅雨本番だけど、今年は暑くなったり寒くなったり気温の乱高下に悩まされている。梅雨に入ってからも油断はできない。真夜中の2時は俳句によく使われる時間でもある。ツイッターやオンラインゲームで夜中の遊び相手も不自由のないこの頃では昔ほど夜更けまで起きている孤独感は薄れてきているだろうが、草木も眠る丑三つ時である時間帯であることには変わりはない。寝ずの番をしているのか、天井に張り付いて座敷の様子をうかがっているのか、緊張状態にあるべき忍者が二時に眠くなると断定で言い切ったところがこの句の魅力だ。しとしと降り続く雨音が子守歌なのか、うとうとしてしまう忍者がなんだかおかしい。ユーモラスなイメージとともに心地よい音の響きとリズムも素敵だ。『しやりり』(2013)所収。(三宅やよい)


June 1962014

 犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ

                           筑紫磐井

心ついた時から何匹の犬と出会ったことだろう。家族が動物好きだったので犬と猫は絶やしたことがなかった。犬はシビアに家族の順位を決めるので五人兄弟の末っ子の私などは犬以下の存在で噛まれたり追いかけられたり散々だった。そんな犬たちも次々老いて死んでいったが一度犬を飼うと死んだ後の寂しさを埋めるように、また犬を飼い始めてしまう。結局最後は自分の老いと考え合わせて、最後まで面倒見切れないと判断した時点で「飼う」というサイクルも終わりを迎える。「犬」と「飼う」という言葉の繰り返しで、犬と人間の付き合いを、飼い主より先に死んでしまう犬への哀惜を、ひしひし感じさせる句だと思う。『我が時代』(2014)所収。(三宅やよい)


June 2662014

 東京ははたらくところ蒸し暑し

                           西原天気

日都心に通勤しているが、「はたらくところ」というのは実感だ。東京の都心は生活の匂いがしない。窓のあかない高層ビルの只中に緑はまばら、夏の日の照り返しを受けた舗道を歩くとあまりの暑さに息が詰まる。冷房のきいたオフィスと戸外の気温の落差に一瞬目がくらむほどだ。「はたらく」という忍耐の代償としてお給料がある。と、新聞の人生相談に書いてあったけど、憂鬱な表情で通勤している人たちはどうやって自分をなだめているのだろう。今朝もまた人身事故で電車が遅れるという告知が電光掲示板に流れる。やってられないなぁ、と思いつつ掲句を呟いてみる。『はがきハイク』(2010年7月・創刊号)所載。(三宅やよい)




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