ム子句

January 0412014

 電線の弛むもゆたか初景色

                           髙勢祥子

景色は、元日の四方の景色。昨日までと何ら変わらない風景ではあるけれど、年があらたまることで淑気が満ちて見えるのだ。何にそれを感じるか、何を見てどの景を切り取って初景色と言うか。この句の作者は頭上に横たわり揺れる電線に目を留めている。見なれたそのゆるやかな曲線を、ゆたか、と表現することで、作者の晴々とした心持ちと共に清々しい初御空がどこまでも青く続くだろう。(硬く青く一月一日の呼吸〉〈初鳩の考へてゐるふうで暇〉など、他にも個性的な正月の句が並んでいる。『昨日触れたる』(2013)所収。(今井肖子)


January 1112014

 ぬるるもの冬田になかり雨きたる

                           水原秋桜子

やかな年末年始だったが、寒の入りの5日あたりからぐっと冷えこんでいる。そんなからからの東京に雨の予報、十二日ぶりだというが、この句の冬田も枯れ色に乾ききっていたのだろう。作者はかなりの時間、冬田を前に佇んでいたにちがいない、そこに雨。あ、雨、と気づくのは一瞬のことであり、それからあらためて冬田が雨に包まれていくのをじっと見ている作者である。景の広がりと共に時間の経過がこの短い一句の中に感じられるのは、冬田と雨、以外何もないからだろう。その省略が、寂寞とした冬田に自然の美しさを与えている。『秋苑』(1935)所収。(今井肖子)


January 1812014

 雪月夜わが心音を抱き眠る

                           本宮哲郎

月夜、静けさに満ちた美しい言葉だ。高々と在る冬の月の白と一面に広がる雪の白、どちらも輝くというほどではない光を湛えている。そしてそれは、目を閉じて自らの鼓動を確かめながら、来し方に思いをめぐらせている作者の心の中にある光景なのだろう。句集『鯰』(2013)のあとがきに「これからも命ある限り一句初心の志で、自然を通しての生活をより豊かに、より深く詠んでゆきたいと思っております」と書かれた作者だが、昨年十二月十八日に亡くなられた。その言葉どおり、特に掲出句を含む平成二十五年の句はいずれも平明で淡々としていて深い。合掌。(今井肖子)


January 2512014

 寒鴉飛びあがりつゝ土を見る

                           渡辺白泉

地に建つ我が家の東南の塀の前が長年ゴミ集積場となっているが、中には行儀の悪い人もいるので、年中鴉と戦っている。考えてみれば鴉に罪があるわけでもなく、やれやれと言いつつ散乱したゴミを片付けるのだ。<首かしげおのれついばみ寒鴉>(西東三鬼)とあるように、餌の少ないこの時期の鴉は動きも鈍く侘しさが感じられると言われているが、都会の鴉も確かにややおとなしい。そんな真冬の鴉だが、掲出句の鴉には野生の迫力がある。今の今までじっとしていた鴉が急に大きく羽ばたくその一瞬、鴉の視線は地面に向けられている。うっかり這い出した虫かなにか、餌を見つけたのだろう。土を見る、とは言えそうで言えない表現であり、鴉にも大地にも生命が躍動する。『新日本大歳時記 冬』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


February 0122014

 雪が来る耳のきれいな子どもたち

                           大島雄作

の句を読んでふと浮かんだのは、バレエや体操などをしている少女のお団子ヘア、正式に何と呼ぶのかわからないが、近くの駅でよく見かける少女たちの姿だ。練習の行き帰り、彼女らの服装はまちまちだが、このヘアスタイルはおそろいである。時折笑い声をあげながら電車を待っているその声も表情もあどけない彼女たちがふと見せるきりりとした横顔。てっぺんのお団子に向かう髪の直線と、細い首から顎にかけての曲線、そのシンプルなラインの真ん中にある複雑な形の耳の存在をあらためて認識した。雪催の灰色の空の下、白い息を吐きながら笑い合う少女たちのむき出しの耳の清々しさとヒトらしいうつくしさはまさに、きれい、なのだろう。『春風』(2013)所収。(今井肖子)


February 0822014

 白梅や百年経てば百年後

                           野口る理

の樹齢はそれこそ百年二百年、その花はほころんでからこぼれるまで淡々と早春を咲き続ける。風が吹いても、さして大きく揺れることもない静かな強さを持つ梅の木の前に作者は立っているのだろう。そんな時、理屈ではなくふと感じるもの、ヒトについてこの世について、考えたいような考えたくないような、言葉では到底うまく表せない何か、それがこの句から伝わってくるような気がした。見せかけの単純さや作為は見えず、作者自身がしかと存在している。それは句集のあとがきにある、「今」や「思い」を伝える手段としてではなく「俳句」そのものに向き合い作品にしていきたい、という作句姿勢によるものだろう。<曖昧に踊り始める梅見かな ><家にゐてガム噛んでゐる春休み >。『しやりり』(2013)所収。(今井肖子)


February 1522014

 春の雪波の如くに塀をこゆ

                           高野素十

前歳時記でこの句を見たとき、あまりピンと来なかった。春の雪は降ったそばから光に溶けてしまうようなイメージで、波の如く、という感じが今ひとつわからなかったからだ。そこへ先週の雪、牡丹雪というにはあまりに細かい雪の粒が止む気配もなく降り続き時折の強風にまさに、波の如く、を実感した。傘をたたんでフードをかぶり、これを吹雪って言ったら雪国の人に叱られそうだけど吹雪だね、などと言い合いながら歩いたが、やや水っぽい春の粉雪は風に乗って塀を越え屋根を越え、東京を覆っていった。溶け残った雪にいつまでも街は冷たいままだが、日差しは確実に明るくなってきている。『合本俳句歳時記』(2008・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


February 2222014

 かまくらに触れいてふっと海のこと

                           小松田吉一

週末大雪の中、平常時のほぼ二倍、東京から八時間かけてたどりついた横手には、本物の雪と本物の寒さと初めて見るかまくらが待っていた。掲出句は、二月十六日に開催された、横手かまくら吟社主催の第四十四回かまくら探勝全国俳句大会での一句。灯のゆれるかまくらに新しい雪が降り積んで、思わずふれてみると思いの外やわらかかったのだが、同じようにかまくらにふれた作者の心にはふっと海が浮かんだのだという。ただ単に、幻想的、という言葉では言い表せない何かが、海、の一語に広がってゆく。白い雪に包まれてあおあおと暮れながら雪国は夜に沈んでいった。(今井肖子)


March 0132014

 片方が動けば動き春の猫

                           上野嘉太櫨

の恋、の傍題は他に、恋猫、うかれ猫、などあるが、その中で、春の猫、というと少し印象が違う感じがするのは、春、という言葉の持つ明るさのせいだろうか。この句も、恋の猫、とか、猫の恋、となっていれば、一匹の雌猫をめぐって戦う二匹の雄猫がリアルに浮かぶが、春の猫、とすることで、そこに生々しさよりも早春の喜びがより強く表される。『現代俳句全集 第二巻』(1954・創元社)にあったこの句の作者は、川端茅舎に師事したとあるが他に<癇癪のほとばしるまゝ麦踏に>など、おもしろい切り取り方をした句が残っている。(今井肖子)


March 0832014

 啓蟄や土まだ知らぬ嬰の足

                           吉田一郎

どりごの手足は、小さいのにちゃんと手足という当り前のことも含め、限りなく愛おしい。目の前に置かれたそんな手足を見つつふと自分の足に目をやれば、長きにわたり大地を踏みしめ自重を支え続けてきた我が足は逞しく、足の裏は固い。この子もやがて自分の足で立ち様々なことの待つ人生を歩いていくのだ、と思うとより愛おしさが増すのだろう。雛を納めると啓蟄。最低気温が五度を下回らなくなるとそちこち冬眠から覚めるらしいが、週間予報を見ても東京ですらまだまだ寒い。この先、冬と夏が長くなり春と秋は短くなっていく、などという説もありやれやれだが、それでも日々明るい何かを待ちながら過ごす三月である。『未来図歳時記』(2009・ふらんす堂)所載。(今井肖子)


March 1532014

 貝殻に溜れる雨も涅槃かな

                           細見綾子

日は陰暦二月十五日、釈迦入滅の日、涅槃にあたる。数年前の三月の京都、二時間ほどの旅程の隙間にぶらりと入った古いお寺の涅槃図を思い出す。涅槃会で掲げられているのを大勢の人と見るのとはまた違い、薄暗い本堂の奥で一人で見る涅槃図は、信心深いとは言えない身にも大きな何かを感じさせるものだった。掲出句は、明日涅槃、という項にある一句。海岸を散歩していると貝殻に水が溜まっている。それが海水ではなく昨夜の雨水であると気づいたとき、涅槃会の供物「測り知ることのできない大きな広いものへの供物」であると感じたという。それが、雨も、の一語となったのだろう。高々と輝いてた月も涅槃図の中の印象深いものの一つ、今宵そろそろ育ってきた月が眺められるだろうか。『武蔵野歳時記』(1996・東京新聞出版局)所載。(今井肖子)


March 2232014

 手のひらにのるほどの骨春の寺

                           竹内友子

週末、彼岸にはすこし早かったが墓参りに行き、お彼岸っていい頃合いにあるよねと当たり前のことを言い合った。お盆と異なり日本独特の行事だというが、真西に沈む太陽に自然に手を合わせるというのも頷ける。そして最近読んだ掲出句を、鶯を聞きながら思った。二十年ほど前に生後ほどなくお孫さんを亡くされた時の句で、第一句集の冒頭に置かれていた数句のうちの一句である。あとがきに、俳句は日記のように私の心に根付いている、とある。作者にとって春の訪れは悲しみの記憶とともにあるが生まれた言葉は、その心情を永遠のものとしてとどめながら生きる力を与えるのだろう。『春時雨』(2014)所収。(今井肖子)


March 2932014

 春雷や暗き茶の間に妻と客

                           渡邊そてつ

子編歳時記の春雷の項に、柔らかな春にはためくのも趣がある、とあり、はためくは、はたたくと同義で鳴り響くことだという。これが春雷か、と認識したのはかなり前だが、あっと思ってから耳を澄ましていても二度と聞こえなかった記憶がある。何回かここに句を引いている『現代俳句全集』(1954・創元社)の第二巻からの一句、六十年前の現代である。子規、虚子、に始まって、爽波、風生、立子、青邨等々見知った名前は多くはなく、総勢百四十二人がそれぞれ三十句〜七十句余りを載せている。掲出句の作者は医学博士とある。この句は<坂の灯の暗くはあれど初桜 ><日に幾度蔵に用ある梅雨の傘 >に挟まれているので、日常の一瞬の景と思われるが、一句だけを読むとそこに物語めいた不思議な艶が感じられる。これが夏の雷であったらおどろおどろしい気がしてしまう、というのは考えすぎか。(今井肖子)


April 0542014

 花の闇静かに人の気配あり

                           今井つる女

ういう花の闇には、今やなかなか出会えない。満開の夜桜を観にちょっと出かけてみたが、都内はどこも人がひしめき合っていて桜はライトアップされている。この句は昭和五十四年作、そのころ我が家を含め三本の桜の大樹が作者の部屋の窓から見えたはずである。漆黒の闇を満開の桜が仄白く照らすともなく照らす花の夜、窓辺に居るとふと人の気配がする。その気配に花の闇はわずかにゆれ、より一層静けさを増したのだろう。静かに、と言っているのが一読した時は説明のような気がしたのだが、人の気配を静かと言うことで花の闇の静けさがより引き立つのだ思うようになった。手のひらサイズの句集『吾亦紅』(1998)、変な行き詰まり方をしてるな、と自覚した時に読む。(今井肖子)


April 1242014

 蘖や涙に古き涙はなし

                           中村草田男

(ひこばえ)は、切り株や木の根元から伸びる若芽をいい、孫(ひこ)生えの意、とある。切り株が古くて固いほど、若々しい新芽の緑が鮮やかな生命力を感じさせて春らしい言葉だ。涙はいつも生まれたてなのはわかっていることなのだが、こういう句は、はっとさせられてあらためてなるほどなあ、と納得する。泣くことがストレスを発散させるという研究もあるとか、映画は確実に泣ける映画を泣くために観にいく、という知人もいるが、本来は思わず昂ぶった感情が形になってあふれるものだ。蘖の明るさに、作者のまなざしの優しさが垣間見える。また、下五の音を整えようとして、涙なし、とすると途端に間が抜けてしまう。何が大切なのか、あらためて考えさせられた句でもある。『銀河依然』(1949)所収。(今井肖子)


April 1942014

 落花いま紺青の空ゆく途中

                           成瀬正俊

朝ベランダから見ていた遠桜も緑になれば一枚の景に紛れてしまう。いつもなら、代わって盛りとなった花水木の並木道を歩きながら桜のことはとりあえず忘れてゆくのだが、今年は複雑な思いが残った。それは先週末、吉野山で満開の山桜に圧倒されていたからだ。しかも、二日間居てその万朶の桜が全くゆるがず、信じられないほど散らなかったのだ。散ってこその花、とは勝手な言い草ではあるけれど、これほどの桜が花吹雪となって谷に散りこんだら、という思いを抱いたまま帰途につき今日に至った。そして、未練がましいなと思いながら『花の大歳時記』(1990・角川書店)の「落花」の項を見ていて、掲出句の生き生きとした描写に一入惹かれたというわけだ。青空を限りなく渡ってゆく花、その風の中にいるような心地は、途中、の一語が生むのだろう。花の吉野山に湧き上がっていた桜色を心の中で一斉に散らせて、いつかそんな風景に出会えることを願っている。(今井肖子)


April 2642014

 珊瑚咲く海へ染まりに島の蝶

                           小熊一人

年か前にも同じことを思った気がするのだが、蝶にあまり出会わない。いかにも麗らかな春の日が少ないからだろうか。そうこうするうちに春は行きつつあり、ぐんぐんと緑が育ってきたこのところである。この句の蝶は島の渚から珊瑚の海へ、染まりながら消えていく。珊瑚は動物だが碧い海にまさに咲いている、とは沖縄の美しい海ならではだろう、『沖縄俳句歳時記』(1985・那覇出版社)から引いた一句。海と珊瑚と蝶、明るく美しい色彩だが、蝶はやがて珊瑚の海で永遠に眠ることを知っているかのように感じている作者、春を惜しむかすかな淋しさがそこにある。(今井肖子)


May 0352014

 暖かき雨の降りをり鍋に穴

                           玉田憲子

のアルミの鍋は使っているうちに小さな穴が開いてしまうことがあった。吹きこぼれてもいないのにジュージュー音がするので、おかしいなと鍋を洗って透かして見ると光が漏れている。しばらくその光を見つめつつ、少し情けなくもありながら、この鍋もよく使ったなあと感慨深かったりしたものだ。雨が降っているというかすかな憂鬱、でもそれが春の雨であるという明るさ、その両方をつなぐ小さな鍋の穴である。なべにあな、とつぶやくとなんとなく微笑んでしまう。気がつけば我が家の台所にはもう古いアルミ鍋はなく、穴をあけるなんてとても無理という厚底鍋ばかりになってしまったが。『chalaza』(2013)所収。(今井肖子)


May 1052014

 夕風はうすむらさきに蟻地獄

                           野木藤子

れかけた空、どこからともなく漂う木々の香り、うすむらさきの風とはまさに初夏の心地よい風らしい。そこに蟻地獄である。以前、アリジゴクを捕獲してペットボトルで飼ったという話を聞いたが、美しいともいえるすり鉢状の巣を器用に作りまさにアトシザリ、本当に前には進めないのだという。様々な不思議をはらんだ生き物のひとつだなと思うが、その密やかな地獄は罠としての恐ろしさを秘めながらたいていしんと静かで、アリジゴク自身は長い時間を巣の底で過ごしている。そう思うとうすむらさきの夕風も、これから訪れる闇を誘うようなぞわりとした風に思えてくる。『青山河』(2013)所収。(今井肖子)


May 1752014

 修道女薔薇みることもなくて過ぐ

                           青柳志解樹

豆高原の自営の薔薇園で自ら撮影した薔薇の写真と、八十余名の作家の薔薇の句を集めた『薔薇の俳句1000句& PHOTOGRAPHS of THE ROSES』(2001・みちのく発行所)の前書きによると、近代の薔薇は「人間の愛情に応え、人間社会に歩みよって来た」のだという。薔薇を慈しみ育て続けていた著者の言葉は、薔薇は咲き誇るもの、といった先入観を取り払ってくれる。そんな薔薇のひたむきな美しさに立ち止まることもなく修道女は通り過ぎる。みることもなくて、の軽い切れに、この句の作者の薔薇への視線が修道女に向けられた一瞬が感じられる。その瞬間、修道女の視線も薔薇をとらえて、薔薇の輝きに心が動いたことだろう。(今井肖子)


May 2452014

 鎧戸の影白靴を放り出す

                           内村恭子

の鎧戸は、掃き出し窓のようなところの鎧戸だろう。休暇中の作者は本を読むのにもちょっと飽きて、目の前の海まで散歩に行こうかと立ち上がる。鎧戸の影は縞々、そこに白靴をぽんと投げると、白靴にも縞々の影ができる。ただそれだけなのだが、白靴の一つの表情に小さな詩が生まれていることに気づく作者なのだろう。鎧戸と白靴という二つの素材が、作為の無い景としてくっきりと切り取られている。同じ句集『女神』(2013)に<白靴を踏まれ汚れただけのこと>という句もある。美しい眉をひそめて相当むっとしている作者の様子が目に浮かぶが、お気に入りの白靴があるのかもしれない。(今井肖子)


May 3152014

 涼しくていつしか横に並びけり

                           西村麒麟

我が家のピクチャーレールには<縁柱細り涼風起りけり>(星野立子)の軸がかかっている。渋い紫の表装、さらりと書かれた句中の、涼風、は見るからに涼しく気持ちがよいので夏はこれをかけて過ごしているが、墨で書かれた文字は表情があり味わい深い。梅雨入り前のこの時期、夏の涼しさを感じるにはまだちょっと早いかもしれないが、日ごと育つ緑を見ていると、清々しい涼風が吹き抜ける掲出句を思う。涼し、にこんな表情を持たせた句を他には見たことがなく、この句を思い出すたびに作者の幸せを心地よい余韻として感じるのだ。向かい合って両手をつないで見つめ合っているより、横に並んで同じ方を見ながら片手をつないでいる方が幸せは続く、そんな言葉があったな、などとも。『鶉』(2013)所収。(今井肖子)


June 0762014

 蛇のあとしづかに草の立ち直る

                           邊見京子

どもの頃は夏になると青大将が道を横切るのが当たり前だったが、長じてからは数えるほどしか出会っていない蛇。先日都内の庭園で後ろから、そっちへ今行くと蛇がいますよ、と声をかけられ、ありがとうございます、と走って行き久々遭遇したが、変な人と思われたに違いない。夏草の茂っている中で蛇に会った記憶はそうないが、いつも去っていく気配を見送るという感じだった。この句の作者も、そんな蛇の後姿をしばらく見ていたのだろう。たった今蛇が通った跡の草は蛇の進んだ方向へやや傾ぎながら倒れている。さらに見ていると、一瞬の強い力で踏まれたのとは違い、草はすぐしなやかに立ち直って風に揺れ始める。作者の視線もまた、確かでありしづかである。『俳句歳時記・夏(第四版)』(2007・角川書店)所載。(今井肖子)


June 1462014

 梅雨の花林にしろく野にしろし

                           水原秋桜子

日、梅雨時の日差は白いですね、と言われなるほどと思った。曇っていても、本来は強い夏の太陽の存在が梅雨雲の向こう側に感じられる。そして、山法師、梔子、など木に咲く花から、群れて明るい十薬や雨に重たげな蛍袋など、白い花も目につく。自然の白は豊かで優しく、掲出句もそんな花の色の句のはずが、しろく、しろし、とひらがなで重ねると強く、どこか穏やかかならざりしの感があるなと思いながらいろいろ見ていると『秋櫻子俳句365日』(1990)に載っていた。六月の項の著者有働亨氏は、掲出句の前にある<人ふたりへだつ林や梅雨の蝶 >の前書「石田波郷君は東京療養所に、山田文男君は清瀬病院にあり」を引いて「(この重複した表現は)病弟子二人を思う秋櫻子の晴れやらぬ心の韻律」と述べている。そういう背景を思いながら読み返すと、作者の後姿とその目の前で無垢な白が濡れているのが見えてくる。句集『霜林』(1950)所収。(今井肖子)


June 2162014

 夏至の日に嫁ぐわが影寸詰まる

                           唐崎みどり

わゆるジューンブライドである作者。ヨーロッパでは雨が少なくいい季節である六月も日本では梅雨時、それをジューンブライドなどとは結婚式場の企業戦略にのせられているという向きもあるが、女神ジュノーに由来するとも言われどこかロマンティックだ。そして幸いこの句の作者は五月晴に恵まれ、今日の良き日を迎えている。寸詰まり、とは言うが、寸詰まる、という動詞は見当たらないのだが、ふと足元を見下ろした時の、嫁いでゆくという感慨とはかけ離れた感のある花嫁のつぶやきは、おかしみと同時に照れくささやもの悲しさの入り混じった得も言われぬ複雑な心情を言い留めている。『草田男季寄せ』(1985)所載。(今井肖子)


June 2862014

 梅雨に和す鰭美しき魚焼いて

                           神尾久美子

こんな感じです、と送られてきた動画を見てびっくり、かなり大きい雹が降っている映像、都内からだ。その日は都心でも雷が遠く聞こえて空は暗く大雨の予感、まさに梅雨最中という一日だった。うっとおしいけれど梅雨が無ければお米も実らないしな、などと言いつつ六月も終わる。雨ばかりだと滅入りもするが、外の雨を見ながらの家居は小さな幸せを感じるものだ。ゆっくりと時間を使って過ごせるそんな日は、勢いよく炒め物を作るより、じっくりと魚を焼く方が似合っている。グリルでタイマー、ではなく網で、魚が焼けていく様をじっと見ている作者。少し焦げ色のつき始めた鰭を美しいな、と思った時、和す、という美しい言葉が浮かんだのだろう。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)




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