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January 0712014

 よく食べてよく寝て人日となりぬ

                           青山 丈

日の起源は、古代中国の占の書からきており、一日から六日までは家畜、七日は人を占い、当日が晴なら吉、雨なら凶とされた。江戸時代では人日は公式行事となって、七草粥を食べて邪気を祓い無病息災を祈年する祝日とされた。正月の美食で疲れた胃を休める効果もあり、現在でも七草粥は正月行事の締めくくりとして風習に残る。掲句のもうはや七日と思う感慨には、ご馳走を重ね寝正月を決め込んだのちの満ち足りた心持ちとともに、明日から始まる日常のせわしさが懐かしいような恋しいような気分も含んでいる。それは浦島太郎がおもしろおかしく竜宮で過ごした日々を捨てて故郷に帰りたくなった気持ちにも似て、安穏が幸せとは限らないという人間の面白さでもある。『千住と云ふ所にて』(2013)所収。(土肥あき子)


January 1412014

 東京は寒し青空なればなお

                           高野ムツオ

京という文字には、都会・混雑・高層ビル群など、全てのイメージが詰め込まれている。宮城在住の作者の感じる東京の寒さとは、気温だけではなく、人間性や景色も含まれるものだ。高層ビルの隙間に見える空の切れ端が抜けるように青ければ青いほど、その無機質の物体との取り合わせが不気味に寒々しく感じさせるのだろう。そういえば、実家の母もひとりで東京には出てこない。やはり「寒いから」が理由で、それは静岡という温暖な場所に住んでいるせいだと取り合わなかったが、もしかしたら母もまた、気温とは別の寒さを訴えていたのかもしれないと、鈍な娘は今さらながら思い至ったのだ。〈瓦礫みな人間のもの犬ふぐり〉〈みちのくの今年の桜すべて供花〉『萬の翅』(2013)所収。(土肥あき子)


January 2112014

 みどりごと逢ふたびごとに日脚伸ぶ

                           いのうえかつこ

まれたばかりの赤ん坊を「みどりご」と呼ぶのは、新芽や若葉のような生命力に溢れていることからといわれる。日に日に顔立ちがしっかりとし、喜怒哀楽の表情が生まれ、誰彼に似通う部分を見つける。一日見ないのも惜しいほど、赤ん坊の成長はめざましく、また見る者を幸福にさせる。まだまだ寒いさなかだが、冬至から日はだんだんと伸び、目を凝らせば次の季節が遠くに待っている。「日脚」の言葉が、赤ん坊のまだ頼りない手足を思わせ、しかしそれもまたたく間に元気に走り回るだろうことが約束されている力強さも感じられる。『彩雲』(2013)所収。(土肥あき子)


January 2812014

 襟巻となりて獣のまた集ふ

                           野口る理

頃動物好きを肯定しながら、あらためて振り返るとアンゴラやらダウンやら、結構な数の動物たちがクローゼットに潜んでいる。幼い時分には、尾をくわえた狐の襟巻きなどもよく見かけたものだが、最近は動物愛護の観点から生前の姿そのまま、というかたちは少なくなったようだ。たしかに今見ればグロテスクと思わせるそれであるが、はたして殺生をしたうえでこのぬくもりがあるのだとはっきり自覚することも大切なのではないかとふと思う。食品も衣料も、今やなにからできているのかさだかではない時代にあって、まごうことなき狐が集う光景は、豪華というより真っ正直な感じがしていっそ心地良いように思われるのだ。『しやりり』(2014)所収。(土肥あき子)


February 0422014

 手を振れば手を振る人のゐて立春

                           佐怒賀直美

ち合せ場所に相手の姿を見つけて大きく振る手には喜びがあふれ、別れ際に振る手には名残惜しさが込められる。どちらも同じ動作だが、掲句の「立春」の溌剌とした語感は、ものごとの始まりを思わせ、若々しいふたりの姿が浮かび上がる。古来から「領巾(ひれ)振る」や「魂(たま)振り」などの言葉があるように、なにかを振ることは相手の視覚にうったえる動作であるとともに、空気を振動させ神の加護を祈ったり、相手の魂を引き寄せたりする意味も持つ。まばゆい早春の光のなかで交わされた合図は、まるで春を招く仕草にも見えてくる。春は名のみの凍えるような日のなかで、今朝からの「いってらっしゃい」は、春の女神へも届くように、いつもより大きく振ってみよう。「塔・第9巻」(2014)所載。(土肥あき子)


February 1122014

 箸といふ文化が不思議建国日

                           林 翔

界の食事の方法を大きく分けると、直に手を使う、箸を使う、ナイフ・フォークを使う、の三種類になるという。それぞれ食材やその調理法の違い、また作法によって独自に確立してきたものだ。昨年末に和食はユネスコ無形文化遺産に登録されたこともあり、和食をつかさどる箸は今後ますます注目されていくことだろう。頼りない二本の棒を片手で操り、まぜたり、はさんだり、運んだり、さまざまな機能をなんなくこなす。日本人が思うままに使うことのできる箸にはもうひとつ大きな利点がある。あらゆる食器のなかでなにより洗いやすく、清潔に保てることだ。(土肥あき子)


February 1822014

 恋猫の体つめたくして帰る

                           鳥居三朗

にも寒がりだと強調されるわりに、猫が恋を謳歌するのは一年のなかでもっとも気温が低いこの時期から始まる。なにもこんな季節にうろつかなくてもと思うのだが自然の摂理が彼らをそうさせるのだから気をもんでも仕方ない。毎年思うことだが、現代ではペットとして同格の犬と猫も歳時記のなかではずいぶんと差がついている。猫は発情期はもとより孕猫、子猫、果てはかまど猫まで季語となっているのに対し、犬はながらく人間の従者となって働く猟犬だけだった。のちに山本健吉が「冬の犬」を季語として立てたが、採用していない歳時記も多く、飛び抜けた例句も出ていないようで定着とはいえないだろう。そこへいくと発情する猫の鳴き声は猫好きでさえ迷惑に思うしろものだが、芭蕉から現在までずいぶん作品にされている。掲句の猫もようやく戻ってきた身体を撫でる飼い主の手をするりと抜けて、なにくわぬ顔で毛づくろいでもしているのだろう。『山椒の木』(2002)所収。(土肥あき子)


February 2522014

 蕗の薹空が面白うてならぬ

                           仲 寒蟬

の間から顔を出す蕗の薹。薹とは花茎を意味し、根元から摘みとっては天ぷらや蕗味噌にしてほろ苦い早春の味覚を楽しむ。穴から出た熊が最初に食べるといわれ、長い冬眠から覚めたばかりで感覚が鈍っている体を覚醒させ、胃腸の働きを整える理にかなった行動だという。とはいえ、蕗の薹は数日のうちにたちまち花が咲き、茎が伸びてしまうので、早春の味を楽しめるのはわずかな期間である。なまじ蕾が美味だけに、このあっという間に薹が立ってしまうことが惜しくてならない。しかし、それは人間の言い分だ。冴え返る早春の地にあえて萌え出る蕗の薹にもそれなりの理由がある。地中でうずくまっているより、空の青色や、流れる雲を見ていたいのだ。苞を脱ぎ捨て、花開く様子が、ぽかんと空にみとれているように見えてくる。〈行き過ぎてから初蝶と気付きけり〉〈つばくらめこんな山奥にも塾が〉『巨石文明』(2014)所収。(土肥あき子)


March 0432014

 鶯を鶯笛としてみたし

                           西村麒麟

話ではなにかにつけ美しい声が重宝された。人魚姫は声と引替えに人間の足をもらい、塔の上のラプンツェルは狩りをしていた王子の耳に歌声が届いた。王を死神から守ったのは小夜啼鳴(ナイチンゲール)の囀りであり、小夜啼鳴の別名は夜鳴鶯である。日本に生息する鳴き声が特に美しいとされる三鳴鳥は鶯、大瑠璃、駒鳥だそうだが、ことに鶯は古くから日本人に愛され、江戸時代には将軍家に特別に鶯飼という役職があったほどだ。掲句にも鶯の鳴き声に聞き惚れ、その囀りに惑わされた人間の姿が見えてくる。鶯を飼いならすには収まらず、笛として独占したいという作者に、魅了された者の悪魔的な展開が予感される。『鶉』(2014)所収。(土肥あき子)


March 1132014

 なほ続く風評被害畑を打つ

                           深見けん二

昨年秋にいわき市のホテルに宿泊した際の朝食のご飯は福島産と他県産が区別されていた。昨年末も同じだった。現在の風評被害の最たるものは、3年前のこの日に起きた東日本大震災を発端とした原発事故によるものだろう。風評とは根も葉もない噂のこと。噂は正しい情報を得ていない不安から引き起こされる。きれいな大地が戻ることを誰もが願い、春になれば種を蒔き、秋になれば収穫の喜びを分かち合う。土と生きる者として、あたりまえの幸せが叶えられない。種蒔きの準備のため土を耕す畑打ち。鍬を打つたび、黒々とした土が太陽の下にあらわれる。やがて大地はふっくらと種を待つ。(土肥あき子)


March 1832014

 春の夜の細螺の遊きりもなし

                           大石悦子

螺(きさご)は小さな巻貝。ガラスが出回る前にはおはじきとして使われた。ひとところに撒いた小さな貝を指で弾いて取っていく静かな遊びは、時折自分の影で覆われてしまう。そんなときは、体を傾げたり、位置をわずかに変えたりして、春の灯を従えるようにして遊ぶ。自註現代俳句シリーズの本書は、全句にひとことの自註が添えられる。あとがきには、せっかく苦労して十七音に閉じ込めた俳句に言葉を足す作業をむなしく思ったが次第にそれを楽しんだ、とあり、どの自註も俳句を邪魔することなく、ときには一行にも満たないそっけなさで綴られる。そこには十七音からこぼれ落ちた作者の素顔を見る楽しみがある。掲句に添えられた自註は「ひとり遊びが好きだと言ったら、孤独な人ねと返された」とある。作者にとってそのやりとりを思い出したこともまた喜びのひとつだったかもしれない。『大石悦子集』(2014)所収。(土肥あき子)


March 2532014

 トウと言ふ母の名前や花山椒

                           植竹春子

変わりな名付けもめずらしくなくなった昨今だが、さすがに彷徨君や彼方ちゃんはなんと読んでよいものか首を傾げてしまう。それでも親が子を思い苦心惨憺した末に付けた名だということは確かだろう。振り返れば、明治生まれのわたしの祖父の名は弁慶だった。兄ふたりが夭逝したため、強い名を求めた結果だが、この名のためなにかと苦労も多かったようだ。一方、大正生まれの祖母は菊の季節に生まれたのでキク。大正時代あたりまで女性はカタカナで二〜三文字の名が多かった。掲句のトウさんも、おそらく十人目の子であったとか、ごくあっさりした理由によるものだろう。男性、ことに長男の名の手厚さに比べるとあまりのそっけなさに当時の男子優勢を見る思いがする。しかし、子どもにとって親の名とは呼ぶことのない名でもある。母という存在に固有の名のあることで、自分から遠ざかってしまうような心細さも覚えるのだ。花山椒が過ぎ去ったあの頃の生活の匂いを引き連れ、胸をしめつける。〈歌うたふやうに風船あがりけり〉〈瞬きをしてたんぽぽをふやしけり〉『蘆の角』(2014)所収。(土肥あき子)


April 0142014

 炊飯器噴き鳴りやむも四月馬鹿

                           石川桂郎

じめちょろちょろ中ぱっぱ、が済んだあたりの炊飯器。激しく出していた蒸気が落ち着いた頃だろう。手順が口伝されるほど手がかかったご飯炊きに、自動炊飯器が登場したのは1956年。誰が世話するでもなく炊ける炊飯器に主婦はどれほど歓喜したことだろう。一方、世の男性諸氏は妻とは少し違う見方をしていたようだ。掲句の作者も炊飯器に対して働き者へのねぎらいよりも、いまいましさすら感じているかに思わせるのは、四月馬鹿の季語を斡旋したことでも表れている。妻の労働を軽減することが、すなわち家庭をおろそかにするのではないかという不安につながっているのは、なんともかわいらしくもある。さて、四月馬鹿の今日は、罪のない嘘で笑い合うことが許される不思議な風習。この日は毎年さまざまな企業がジョークのセンスを競っているが、昨年は讃岐うどんチェーン店「はなまる」のホームページ「新メニュー:ダイオウイカ天(要予約)87,000円」に思わず笑ってしまった。時事を上手に取り入れるところが腕の見せどころ。だますのは午前中、午後には種明かしということもお忘れなく。「現代俳句全集 3」(1959・みすず書房)所載。(土肥あき子)


April 0842014

 狛犬の尾の渦巻けり飛花落花

                           天野小石

社の参道に入ると両脇に置かれる狛犬の起源は、エジプトやインドの獅子が中国を経て伝来したとされる。仁王像同様、二体は阿吽のかたちを取り、筋骨隆々、痩せ形、巻き毛と姿態も大きさもさまざまである。掲句の狛犬は尾にも渦を持つタイプ。渦巻きは燃え立つ炎を思わせ、全身に立体感があり、雄々しいタイプの狛犬だ。そのいかめしい狛犬に桜が降りしきる。一斉に咲く桜は満開の日から飛花落花が始まる。風雨にさらされ通しの狛犬も、一年のうちのほんの数日は、こうして花にまみれることもあるかと思うと、ふと安らかな思いにもとらわれる。体中に桜の花びらをまとわりつかせた様子は、唐獅子牡丹ならぬ、狛犬桜とでもいうような豪奢な景色だろう。桜吹雪がやわらかく触れるなかで、歯を見せる狛犬がなんとなく笑っているようにも見えてくる。『花源』(2011)所収。(土肥あき子)


April 1542014

 しがみつく子猫胸よりはがすなり

                           岩田ふみ子

年前、里親募集をしていたお宅で保護されていたのは三毛と白黒の姉妹。350gばかりの仔猫をかわるがわる抱き上げてもふわふわと頼りなく、ひしと胸にしがみつく姿は猫というより虫がくっついているようだった。細い爪をたてて、まるで「このまま連れていって」と言っているような健気な風情になんともいえない哀愁があり、結局二匹とも貰い受けた。猫姉妹はさっさと大人になり、一年でおよそ10倍に成長した。遊び相手がいつでも身近にいるので、それほど人間に甘えてこないところが少しさみしくもあるが、大人だけの暮らしのスパイスとなっているのはたしかだ。仔猫がまだ目が開く前から高いところへと登ろうとする習性は、かつて木の上で生活していた頃の安全地帯が記憶に刷り込まれているためだという。長い歴史のなかで生き残ってきた動物たちの知恵が小さな猫にも活かされている。掲句の仔猫にもどうか必要とされる家族が見つかりますように。『文鳥』(2014)所収。(土肥あき子)


April 2242014

 足跡の中を歩いてあたたかし

                           高橋雅世

跡が見えるということはアスファルトなど都会の道路ではないようだ。土に刻まれた足跡には、雑踏に感じる圧迫感と異なり、かすかな気配だけが残される。この道を自分よりほかに同じように歩いた人がいる。あるいは人ではなく、動物のものかもしれない。見ず知らず同士の生活の軌跡が一瞬ふと触れ合う。あたたかな日差しに包まれ、現在と過去が交錯する瞬間、記された足跡のひとつひとつから体温のぬくもりが発しているように思われる。掲句では足跡(あしあと)と読ませると思うが、足跡(そくせき)とも読むことを思うと、意味は一層深くなる。〈林から飛び出してゐる木の芽かな〉〈横顔のうぐひす餅をつまみたる〉『月光の街』(2014)所収。(土肥あき子)


April 2942014

 尺蠖の上に尺蠖渡る朝

                           佐藤日和太

体を屈伸させて移動することから、寸法を計っているように見えるしゃくとり虫。生真面目に移動する姿が愉快で見飽きないが、やはり同じ尺蠖でも足の遅速はあるようだ。あるいは、同じ尺蠖のなかにも丹念に計る派とざっと計る派があって、後者が前者を追い越したのだろうか。追い越す側も大きくまたいで行くわけでもなく、やはりせっせと屈伸しながら乗り越えていったのだろうと思うとなおさら愉快だ。どちらにしても手に汗にぎるレースというより、そのなりゆきを面白く見守っている様子が伝わってくる。ところで尺が長さの単位であることを理解できる世代はどれほど残っているだろう。かくいう私も尺という文字のなりたちが親指と人差し指を広げ、ものを計るかたちからきているとはこのたび初めて知った。実際に人差し指と親指を広げたとき一尺(30.3cm)というわけにはいかない。計ってみると15cm。二回分でちょうど一尺になることが分かった。本日昭和の日にふさわしい知識を得られたように思う。『ひなた』(2014)所収。(土肥あき子)


May 0652014

 虎が一匹虎が二匹虎が三匹藤眠る

                           金原まさ子

の花の美しさは、古くから日本人をとりこにし「万葉集」では26首に見られる。満開の藤が盛大に懸け垂れるなかに立てば、その円錐形が天地をまどわし、甘い香りとともにめまいを覚えるような心地となる。その美しさは蔓で他者に支えられており、それはあらゆるものに巻き付き、食い込み、枯れ果てるまで締め上げるという残酷な側面を持つ。掲句では、唐突に登場した虎が最後になって眠れない夜に数える羊のかわりであることがわかる。藤の生態の獰猛さを思えば、おとなしく穏やかな羊ではまるでもの足りないというのだろう。肩をいからせ、舌なめずりをしながらたむろす虎を想像しながら藤はうっとりと眠りに落ちる。紫の藤の下に黄色と黒のビビッドな虎が一匹、二匹そして三匹。あなたなら眠れますか?『カルナヴァル』(2013)所収。(土肥あき子)


May 1352014

 綿津見の鳥居へ卯浪また卯浪

                           藤埜まさ志

波とは陰暦四月、卯月の波のことだが、決して静かな波ではなく、晩春から初夏にかけての低気圧によって立つ白波をいう。綿津見(わたつみ)に立つ鳥居といえば、まよわず宮島の大鳥居が浮かぶ。淡々と景色を写生した掲句だが、口にすればたちまち海の深い青、続けざまに寄せる波頭の白、そして鳥居の朱色が眼前に立ち現れる。それは合戦の昔から図絵に描かれた景色であり、また世界文化遺産となって残る今日の景色でもある。目にも鮮やかな鳥居の朱色は邪気を祓うと同時に、丹を塗ることで腐食も防ぐという実利も兼ね備えていた。先人の知恵と工夫が日本人の美意識として引き継がれ、またそれを言葉にして愛でることができる喜びが潮のように胸に満ちる。『火群』(2014)所収。(土肥あき子)


May 2052014

 ひばり揚がり世は面白きこともなし

                           筑紫磐井

白いとは不思議な言葉だ。語源は面は目の前、白は明るさを意味し、目の前がぱっと開けるような鮮やかな景色をさした。のちに美しいものを見たことで晴れ晴れとする心地や、さまざまな心の状態も追加され、滑稽まで含む多様性を持つ言葉となった。面白いかどうかとは、すなわちそれを探求あるいは期待する心が言わせる言葉なのだろう。掲句がともすると吐き捨てるような言い回しになってしまうところを救っているのが、軽快なひばりの姿である。空へとぐんぐん上昇する雲雀を目を追っていることで、鬱屈した乱暴さから解放された。時代を経て付け加えられ、ふくらみ続ける「面白い」に、またなにか新しい側面を見ようとする作者の姿がそこに見えてくる。『我が時代』(2014)所収。(土肥あき子)


May 2752014

 抱く犬の鼓動の早き薄暑かな

                           井上じろ

夏の日差しのなかで、愛犬と一緒に駆け回る楽しく健康的なひととき。本能を取り戻した犬の鼻はつやつやと緑の香りを嗅ぎわけるように得意げにうごめき、心から嬉しそうに疾走する。それでもひとたび飼い主が呼び掛ければまっしぐらに戻ってくる。ひたむきな愛情表現を真正面から受け止めるように抱き上げてみれば、薄着になった身体に犬の鼓動がはっきりと伝わってきたのだ。それが一途に駆けてきたことと、飼い主と存分に遊べることの喜びで高鳴っているためだと理解しつつ、思いのほか早く打つ鼓動が、楽しいだけの気分に一点の影を落とす。一生に打つ鼓動はどの動物でも同じ……。この従順な愛すべき家族が意外な早さで大人になってしまう事実に抱きしめる腕に力がこもる。〈たわわなる枇杷ごと家の売り出さる〉〈単身の窓に馴染みの守宮かな〉『東京松山』(2012)所収。(土肥あき子)


June 0362014

 風薫るこれからといふ人生に

                           今橋眞理子

薫るとは、青葉若葉を吹き抜けるすがすがしい季語である。初夏の茶席によく掛けられる軸「薫風自南来」の出典は皇帝と詩人のやりとりのなかで生まれた漢詩だが、のちに禅語として取り上げられたことで、一層の涼味が加わった。黒々とした字配りと禅語風の「くんぷーじなんらい」という調子は、目にし、口にするだけで執着やわだかまりから解放されるような心地になる。掲句はこれから新しい一歩を踏み出す背中へ向けたエールである。この世の美しいものだけに触れながら通う風は、光りに満ち、未来に向かって吹き渡るのにもっともふさわしいものだろう。日々のなかで悩んだり、迷ったりしても、風薫る季節がいつでも初心を思い出させてくれる。本書のあとがきに「偶然が意味を持つ時、それは運命となる」とある。運命の扉はいつでも開かれるのを待っている。『風薫る』(2014)所収。(土肥あき子)


June 1062014

 サイダーや泡のあはひに泡生まれ

                           柳生正名

国清涼飲料工業会が提供する「清涼飲料水の歴史」によると、日本に炭酸飲料が伝えられたのは1853年、ペリー提督が艦に積んでいた炭酸レモネードを幕府の役人にふるまったことから始まる。その際、栓を抜いたときの音と吹き出す泡で新式銃と間違えた役人が思わず腰の刀に手をかけたという記述が残る。その後、喉ごしや清涼感が好まれたことで一般に広く普及した。掲句ではかつての役人が肝を冷やした気泡に注目する。それは表面に弾ける泡ではなく、コップのなかで生まれる泡の状態を見つめる。泡はヴィーナス誕生の美しさとともにうたかたであることのあわれをまとい、途切れなく、そして徐々に静まっていく。〈切腹に作法空蝉すぐ固く〉〈少年も脱いだ水着も裏返る〉『風媒』(2014)所収。(土肥あき子)


June 1762014

 でで虫の知りつくしたる路地の家

                           尾野秋奈

で虫、でんでん虫、かたつむり、まいまい、蝸牛。この殻を背負った生きものは、日本人にとってずいぶん親しい間柄だ。あるものは童謡に歌われ、またあるものは雨の日の愛らしいキャラクターとして登場する。生物学的には殻があるなし程度の差でしかないナメクジの嫌われようと比較すると気の毒なほどだ。雨上がりをきらきら帯を引きながらゆっくり移動する。かたつむりのすべてを象徴するスローなテンポが掲句をみずみずしくした。ごちゃごちゃと連なる路地の家に、それぞれの家庭があり、生活がある。玄関先に植えられた八つ手や紫陽花の葉が艶やかに濡れ、どの家もでで虫がよく似合うおだやかな時間が流れている。〈クロールの胸をくすぐる波頭〉〈真昼間のなんて静かな蟻地獄〉『春夏秋冬』(2014)所収。(土肥あき子)


June 2462014

 猫老いていよよ賢し簟

                           市川 葉

(たかむしろ)は竹を細く割って編んだ夏用の敷物。ひんやりとした感触を楽しむ。家から外に出さない猫でも、四季のなかで気に入りの場所は変化する。冬の日だまりや夏の風通しなど、猫はもっとも居心地の良い場所を選択する。掲句の猫も、どれほど年齢を重ねてもその賢さは衰えることなく、研ぎすまされた賢人のごとくしずかに目を閉じているのだろう。猫は犬と違って勝手で気難しいといわれるが、たしかにそんな面もある。飼い主はそこを利用することもある。例えば同集に収められる〈要するに猫が襖を開けたのよ〉などは、猫を飼う者にとっては苦笑とともに共感する作品であろう。失くしものや、食器を割ってしまったことなど、何度となく猫がやったことにしてこっそり罪をかぶせている。おそらく猫はすべてお見通しで、寝たふりをしてくれているのだろう。『ぼく猫』(2014)所収。(土肥あき子)




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