本日の増俳。予定を変更してお届けします。懐かしや、今井聖。(哲




2014ソスN1ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2212014

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

                           金子兜太

の量販店のフロアーなら二十のテレビどころの数ではないから、これは街角の電気店の風景。ふと足を止めた視線の先に、スタートの位置に身を屈める黒人の姿が映し出された二十のテレビ画面がある。この句は俳句を作る上で一般的に避けるべきとされるさまざまなタブーを破っている。まず無季句であること。字余りであること。スタートダッシュという長い名詞を用い、しかもカタカナ語が二語出てくること。テレビを通して観る対象だから、間接的な把握になること等々。それら従来の作句方法の「要件」を歯牙にもかけず、(それら一つ一つに「挑戦する意識」があったらとてもこれだけまとめての掟破りはできない)とにかく作者の感じた「現在只今」が優先される。街角も、観ている側も、映し出されている画像も、二十のテレビそのものも、全てひっくるめて状況そのもの。このとき読むものはそこにまぎれもなく呼吸して動いている作者を見出すのである。『暗緑地誌』(1972)所収。(今井 聖)


January 2112014

 みどりごと逢ふたびごとに日脚伸ぶ

                           いのうえかつこ

まれたばかりの赤ん坊を「みどりご」と呼ぶのは、新芽や若葉のような生命力に溢れていることからといわれる。日に日に顔立ちがしっかりとし、喜怒哀楽の表情が生まれ、誰彼に似通う部分を見つける。一日見ないのも惜しいほど、赤ん坊の成長はめざましく、また見る者を幸福にさせる。まだまだ寒いさなかだが、冬至から日はだんだんと伸び、目を凝らせば次の季節が遠くに待っている。「日脚」の言葉が、赤ん坊のまだ頼りない手足を思わせ、しかしそれもまたたく間に元気に走り回るだろうことが約束されている力強さも感じられる。『彩雲』(2013)所収。(土肥あき子)


January 2012014

 遠き日の藁打つ音に目覚めけり

                           大串 章

の間の農家では、藁仕事が欠かせなかった。俵、草履、縄、筵などの一年を通じて日常的に必要なものをこしらえておく。子供でも、縄や草履くらいは自前で作ったものだった。そんな作業をはじめる前に、必ずやったのが「藁打ち」だ。適当な分量の藁束を、小さな木槌でていねいに叩いてゆく。素材の藁を作業しやすいようにしなやかな状態にしておくためだ。そんな藁を打つ音も、いまではまったく聞かれなくなったが、昔はそこらじゅうから聞こえてきたものである。句の作者は、何かの物音で目覚めたのだが、どういうわけか一瞬にしてそれが藁を打つ音だと納得している。現実的にそんなことはあり得ないのに、夢うつつの世界では、こういうことはよく起きる。そしてこのときに、作者は「遠き日の」自分自身に同化している。まったき少年と化している。人生は夢のごとしと素直に感じられるのも、またこういうときだろう。「俳句」(2014年1月号)所載。(清水哲男)




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