都知事選告示日。原発と同様に都知事もいらないという声も(笑)。(哲




2014ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312014

 地吹雪や嘘をつかない人が来る

                           大口元通

とはあまり縁のない土地で育ったせいで、吹雪の中を歩いた経験はない。「素人が吹雪の芯へ出てゆくと」と櫂未知子の句にあるように、方向さへ見失う吹雪は恐ろしいものだろう。では吹雪と地吹雪はどこが違うのだろう?手元の歳時記を引くと「地吹雪は地上に積もった雪が風で吹き上げられること。地を這うような地吹雪と天を覆うまで高く吹き上げられる地吹雪がある」と説明されている。天から降ってくる雪ではなくて、風が主体になるのだろうか。逆巻きながら雪を吹き上げる風の中、身をかがめ一歩一歩足元を確かめながら歩いてくる人、「嘘をつかない人」だから身体に重しが入って飛ばされないというのか、。誇張された表現が地吹雪を来る人の歩み方まで想像させる。ならば嘘つきは軽々と地吹雪に飛ばされてしまうのか、子供のとき読んだ「ほら吹き男爵」の話を思い出してしまった『豊葦原』(2012)所収。(三宅やよい)


January 2212014

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

                           金子兜太

の量販店のフロアーなら二十のテレビどころの数ではないから、これは街角の電気店の風景。ふと足を止めた視線の先に、スタートの位置に身を屈める黒人の姿が映し出された二十のテレビ画面がある。この句は俳句を作る上で一般的に避けるべきとされるさまざまなタブーを破っている。まず無季句であること。字余りであること。スタートダッシュという長い名詞を用い、しかもカタカナ語が二語出てくること。テレビを通して観る対象だから、間接的な把握になること等々。それら従来の作句方法の「要件」を歯牙にもかけず、(それら一つ一つに「挑戦する意識」があったらとてもこれだけまとめての掟破りはできない)とにかく作者の感じた「現在只今」が優先される。街角も、観ている側も、映し出されている画像も、二十のテレビそのものも、全てひっくるめて状況そのもの。このとき読むものはそこにまぎれもなく呼吸して動いている作者を見出すのである。『暗緑地誌』(1972)所収。(今井 聖)


January 2112014

 みどりごと逢ふたびごとに日脚伸ぶ

                           いのうえかつこ

まれたばかりの赤ん坊を「みどりご」と呼ぶのは、新芽や若葉のような生命力に溢れていることからといわれる。日に日に顔立ちがしっかりとし、喜怒哀楽の表情が生まれ、誰彼に似通う部分を見つける。一日見ないのも惜しいほど、赤ん坊の成長はめざましく、また見る者を幸福にさせる。まだまだ寒いさなかだが、冬至から日はだんだんと伸び、目を凝らせば次の季節が遠くに待っている。「日脚」の言葉が、赤ん坊のまだ頼りない手足を思わせ、しかしそれもまたたく間に元気に走り回るだろうことが約束されている力強さも感じられる。『彩雲』(2013)所収。(土肥あき子)




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