♪春と聞かねば知らでありしを…(「早春賦」三番)。その通り。(哲




2014ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0522014

 ひらがなの筆跡で舞う細雪

                           葛西 洌

(俳号:洌浪)は青森市に生まれ、三十五歳頃まで青森県で過ごしていたから、その地に降っている雪のことを詠んでいるのかもしれない。「細雪」は書いて字のごとく細かい雪である。雪には綿雪・牡丹雪・粉雪・細雪など、気温や土地によってさまざまな結晶の仕方があり、形状もいろいろであることは言うまでもない。「ひらがなの筆跡」のたとえはきれいだ。そのように細かく、途切れることなく、軽く繊細にしなやかに「舞う」とうわけである。漢字のようにどっしりして、またカタカナのようにきらびやかでトゲトゲしい雪ではない。洌がひらがなにこだわった詩がある。その一節に「ひらがなでもの想う日は/もっと遠くを見ていたい//遠くを見るということは/さらにその先に続く道があり/道の先は/ひらがなの筆跡のように切れることがない/……」(「もっと遠い所」)とある。彼は「ひらがな」という語に心とらわれていた時期があったらしい。他に「ひらがなでもの想う朝梅実る」がある。2013年に七十六歳で亡くなった。「長帽子」75号(2013)所載。(八木忠栄)


February 0422014

 手を振れば手を振る人のゐて立春

                           佐怒賀直美

ち合せ場所に相手の姿を見つけて大きく振る手には喜びがあふれ、別れ際に振る手には名残惜しさが込められる。どちらも同じ動作だが、掲句の「立春」の溌剌とした語感は、ものごとの始まりを思わせ、若々しいふたりの姿が浮かび上がる。古来から「領巾(ひれ)振る」や「魂(たま)振り」などの言葉があるように、なにかを振ることは相手の視覚にうったえる動作であるとともに、空気を振動させ神の加護を祈ったり、相手の魂を引き寄せたりする意味も持つ。まばゆい早春の光のなかで交わされた合図は、まるで春を招く仕草にも見えてくる。春は名のみの凍えるような日のなかで、今朝からの「いってらっしゃい」は、春の女神へも届くように、いつもより大きく振ってみよう。「塔・第9巻」(2014)所載。(土肥あき子)


February 0322014

 わが里の春めく言葉たあくらたあ

                           矢島渚男

あ、わからない。「たあくらたあ」とは、何だろう。作者が在住する信州の方言であることは句から知れるが、発音も意味もまったくわからない。そこをむりやり解読して、私は最初「食った食った、たらふく食った」の意味にとってしまった。「くらた」を「喰らった」と読んだのである。ところが調べてみると、大間違い。柳田国男に「たくらた考」なる一文があり、「田藏田」とも書いて、「麝香(ジャコウ)といふ鹿と形のよく似た獣だったといふ(中略)田藏田には香りがないので捕っても捨ててしまふ。だから無益に事件のまん中に出て来て殺されてしまふ者」とある。信州では「馬鹿者」とか 「オッチョコチョイ」「ショウガネエヤツ」「ノンキモノ」などを、いささかの愛情を込めて「コノ、たあくらたあ」などと言うそうだ。「たらふく食った」などと頓珍漢な解釈をした私のほうが、それこそ「たあくらたあ」だったというわけである。句の「春めく言葉」というのは、「たあくらたあ」と言う相手にこちらが愛情を感じている言葉だからだ。その暖かさを良しとして、「春めく」と言っている。そしてこの句からわかるのは、そうした句意だけのことではない。いちばん好感が持てるのは、この句を詠んだときの作者がきわめて上機嫌なことがうかがえる点である。春は、もうそこまで来ている。「梟」(2011年3月号)所載。(清水哲男)




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