余寒見舞状をいただいた。まだまだ寒さはつづきそう。(哲




2014ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722014

 手が冷た頬に当てれば頬冷た

                           波多野爽波

りつくように手が寒い。その手を頬に当ててみると、頬の方が冷たかったという驚き。頬より手の方が、寒さに対し敏感なのだろう。この句、主体を自分と考えることもできるが、「手」が冷たい人物と、「頬」が冷たい人物は、別人であると解釈することもできよう。「手が冷たい」と言ったら、傍にいた人が、「私のほっぺたに触ってごらん」と答えた。触ってみると、自分の手より、相手の頬が冷たかったのである。いずれにせよ、この句、口語調で、メルヘンチックな趣がある。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


February 0622014

 流氷が見たくて飴を舐めてをり

                           喜田進次

年も流氷が確認されたと、ニュースでやっていたが接岸はいつだろう。本物の流氷はまだみたことはなくて思い浮かぶのはテレビドラマ「北の国から」で消息不明になったトド撃ちに扮した唐十郎が流氷を渡って港へ帰って来るシーンだ。流氷って人が乗っても大丈夫なんだろうか、トドやあざらしは流氷に乗って旅するんだろうか。流氷ははるか北への旅情をかきたてる。舌の上になま温かく飴を転がす感触とオホーツク海から来る固く冷たい流氷。距離感と質感ともに対照的な二物の取り合わせが魅力的で、私も飴を舐めながら流氷を待ってみたい。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


February 0522014

 ひらがなの筆跡で舞う細雪

                           葛西 洌

(俳号:洌浪)は青森市に生まれ、三十五歳頃まで青森県で過ごしていたから、その地に降っている雪のことを詠んでいるのかもしれない。「細雪」は書いて字のごとく細かい雪である。雪には綿雪・牡丹雪・粉雪・細雪など、気温や土地によってさまざまな結晶の仕方があり、形状もいろいろであることは言うまでもない。「ひらがなの筆跡」のたとえはきれいだ。そのように細かく、途切れることなく、軽く繊細にしなやかに「舞う」とうわけである。漢字のようにどっしりして、またカタカナのようにきらびやかでトゲトゲしい雪ではない。洌がひらがなにこだわった詩がある。その一節に「ひらがなでもの想う日は/もっと遠くを見ていたい//遠くを見るということは/さらにその先に続く道があり/道の先は/ひらがなの筆跡のように切れることがない/……」(「もっと遠い所」)とある。彼は「ひらがな」という語に心とらわれていた時期があったらしい。他に「ひらがなでもの想う朝梅実る」がある。2013年に七十六歳で亡くなった。「長帽子」75号(2013)所載。(八木忠栄)




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