大雪の東京。私の脚の具合では投票所まで行くのは無理だ。残念。(哲




2014ソスN2ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0922014

 雪中梅雪中鶯も在り得たり

                           中村草田男

月になると梅が咲き始めます。暦の上では春ですが、体も暮らしもいまだ冬仕様です。冬と春のはざまですから、季節が重なっていて、季語にもそれが反映されています。草田男句集には雪中梅を詠んだ句がほかに「雪中梅この旅白くなりにけり」「雪中梅一切忘じ一切見ゆ」(昭和29)「雪中梅雪にかくれぬ首花眼前」「雪中梅闘ひつづけ争はず」(昭和42)の四句があります。雪中梅を見ることは稀な僥倖なので、句にしたくもなりましょう。中でも掲句は季語を梅と鶯で重ねたうえに造語も作っています。これは確信犯的で、下五で季重ねを「あり得たり」と断言しているところは、胸を張りつつ照れ笑いしているように思われます。なお、季重ねに関しては恩師暉峻康隆が、「季節の風物が重なっているのだから写実の立場で作句すれば、当然季語は重なり得る。芭蕉にも季重ねはある。」とおっしゃった教えに納得しています。「中村草田男集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


February 0822014

 白梅や百年経てば百年後

                           野口る理

の樹齢はそれこそ百年二百年、その花はほころんでからこぼれるまで淡々と早春を咲き続ける。風が吹いても、さして大きく揺れることもない静かな強さを持つ梅の木の前に作者は立っているのだろう。そんな時、理屈ではなくふと感じるもの、ヒトについてこの世について、考えたいような考えたくないような、言葉では到底うまく表せない何か、それがこの句から伝わってくるような気がした。見せかけの単純さや作為は見えず、作者自身がしかと存在している。それは句集のあとがきにある、「今」や「思い」を伝える手段としてではなく「俳句」そのものに向き合い作品にしていきたい、という作句姿勢によるものだろう。<曖昧に踊り始める梅見かな ><家にゐてガム噛んでゐる春休み >。『しやりり』(2013)所収。(今井肖子)


February 0722014

 手が冷た頬に当てれば頬冷た

                           波多野爽波

りつくように手が寒い。その手を頬に当ててみると、頬の方が冷たかったという驚き。頬より手の方が、寒さに対し敏感なのだろう。この句、主体を自分と考えることもできるが、「手」が冷たい人物と、「頬」が冷たい人物は、別人であると解釈することもできよう。「手が冷たい」と言ったら、傍にいた人が、「私のほっぺたに触ってごらん」と答えた。触ってみると、自分の手より、相手の頬が冷たかったのである。いずれにせよ、この句、口語調で、メルヘンチックな趣がある。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)




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