都知事選はネットで追いかけた。ネット選挙は候補者を身近に。(哲




2014ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022014

 薺咲き堰かれゐし時どつと過ぐ

                           矢島渚男

の訪れは、花や鳥が告げてくれる。ちなみに「春告鳥」といえば「ウグイス」のことであり、「春告草」は「ウメ」のことだ。しかし春を告げるといっても、ウグイスやウメは動植物のなかで先頭をきって告げてくれるわけじゃない。どちらかといえば、ゆったりと春の到来を確認したり念押ししたりするように感じられる。人間の春待つ心は、多く悠長ではない。とりわけて北国の人たちは、長く停滞する冬のプレッシャーのなかにあって、少しでも早く春の兆しをつかもうと待ちかまえているので、ウグイスやウメよりも、他の鳥や花の動静に敏感だ。そんななかで、薺の花はウメよりもかなり早い時期に咲きはじめるので、多くの人たちはむしろこちらの開花を待ち望んでいる。そして、早春のある日。庭や路傍に点々と咲きはじめる白くて小さい花々。目を凝らせば、あちらにもこちらにも白い花が咲いているではないか。と、認識した瞬間に、いままで澱んでいたような冬の時間のかたまりが、まるで堰を切ったように流れ出して、目の前を「どつと」過ぎていき、胸のつかえがとれたように晴れやかな気分になってゆく。地味な花の開花によって、「どつと」流れ出す大量の冬の時間。この句構成は、春待つ心の切実さを的確にとらえていて見事だ。『采微』所収。(清水哲男)


February 0922014

 雪中梅雪中鶯も在り得たり

                           中村草田男

月になると梅が咲き始めます。暦の上では春ですが、体も暮らしもいまだ冬仕様です。冬と春のはざまですから、季節が重なっていて、季語にもそれが反映されています。草田男句集には雪中梅を詠んだ句がほかに「雪中梅この旅白くなりにけり」「雪中梅一切忘じ一切見ゆ」(昭和29)「雪中梅雪にかくれぬ首花眼前」「雪中梅闘ひつづけ争はず」(昭和42)の四句があります。雪中梅を見ることは稀な僥倖なので、句にしたくもなりましょう。中でも掲句は季語を梅と鶯で重ねたうえに造語も作っています。これは確信犯的で、下五で季重ねを「あり得たり」と断言しているところは、胸を張りつつ照れ笑いしているように思われます。なお、季重ねに関しては恩師暉峻康隆が、「季節の風物が重なっているのだから写実の立場で作句すれば、当然季語は重なり得る。芭蕉にも季重ねはある。」とおっしゃった教えに納得しています。「中村草田男集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


February 0822014

 白梅や百年経てば百年後

                           野口る理

の樹齢はそれこそ百年二百年、その花はほころんでからこぼれるまで淡々と早春を咲き続ける。風が吹いても、さして大きく揺れることもない静かな強さを持つ梅の木の前に作者は立っているのだろう。そんな時、理屈ではなくふと感じるもの、ヒトについてこの世について、考えたいような考えたくないような、言葉では到底うまく表せない何か、それがこの句から伝わってくるような気がした。見せかけの単純さや作為は見えず、作者自身がしかと存在している。それは句集のあとがきにある、「今」や「思い」を伝える手段としてではなく「俳句」そのものに向き合い作品にしていきたい、という作句姿勢によるものだろう。<曖昧に踊り始める梅見かな ><家にゐてガム噛んでゐる春休み >。『しやりり』(2013)所収。(今井肖子)




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