東京三鷹、昨日の最高気温は20.2度だった。桜の開花も間近に。(哲




2014N325句(前日までの二句を含む)

March 2532014

 トウと言ふ母の名前や花山椒

                           植竹春子

変わりな名付けもめずらしくなくなった昨今だが、さすがに彷徨君や彼方ちゃんはなんと読んでよいものか首を傾げてしまう。それでも親が子を思い苦心惨憺した末に付けた名だということは確かだろう。振り返れば、明治生まれのわたしの祖父の名は弁慶だった。兄ふたりが夭逝したため、強い名を求めた結果だが、この名のためなにかと苦労も多かったようだ。一方、大正生まれの祖母は菊の季節に生まれたのでキク。大正時代あたりまで女性はカタカナで二〜三文字の名が多かった。掲句のトウさんも、おそらく十人目の子であったとか、ごくあっさりした理由によるものだろう。男性、ことに長男の名の手厚さに比べるとあまりのそっけなさに当時の男子優勢を見る思いがする。しかし、子どもにとって親の名とは呼ぶことのない名でもある。母という存在に固有の名のあることで、自分から遠ざかってしまうような心細さも覚えるのだ。花山椒が過ぎ去ったあの頃の生活の匂いを引き連れ、胸をしめつける。〈歌うたふやうに風船あがりけり〉〈瞬きをしてたんぽぽをふやしけり〉『蘆の角』(2014)所収。(土肥あき子)


March 2432014

 春風の真つ赤な嘘として立てり

                           阪西敦子

者の意識には、たぶん虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」があるのだと思う。これはむろん私の推測に過ぎないが、作者は「ホトトギス」同人だから、まず間違いはないだろう。二句を見比べてみると、大正期の自己肯定的な断言に対して、平成の世の自己韜晦のなんと屈折した断定ぶりであることよ。春風のなかに立つ我の心象を、季題がもたらすはずの常識通りには受けとめられず、真っ赤な嘘としてしか捉えられない自分の心中を押しだしている様子は、いまの世のよるべなさを象徴しているかのようだ。しかしこの句の面白さは、そのように言っておきながらも、どこかで心の肩肘をはっている感じがあるあたりで、つまり虚子の寄り身をうっちゃろうとして、真っ赤な嘘を懸命に支えている作者の健気が透けて見えるところに、私は未熟よりも魅力を感じたのだった。「クプラス(ku+)」(創刊号・2014年3月)所載。(清水哲男)


March 2332014

 てふてふのひらがなとびに水の昼

                           上田五千石

白い。けれどわからない。しばらくしてから読み返して、春のおだやかさが、明るい無風状態で描かれていることがわかりました。まず、「ひらがなとび」がうまい。「カタカナとび」では鋭角的だし、「漢字とび」は困難。「てふてふ」の羽根が、おだやかな春の空気に乗って、ひらがながもつ曲線を描きながらややぎこちなく通り過ぎています。その場所は「水の昼」です。これも最初はわかるようでわかりませんでした。日常的ではない詩的な言葉遣いです。ただ、しばらくして、このまままっすぐ読んでいけばいいことがわかりました。「てふてふ」は、水の上を飛んでいて、水面にも「ひらがなとび」は反射しています。空中の「てふ」と水面の「てふ」。これは分解しすぎかもしれませんが、読みながら遊べる句です。春を最も感じられる昼、無風の水面を蝶がゆっくり過ぎていきました。『琥珀』(2002)所収。(小笠原高志)




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