April 172014
春月の背中汚れたままがよし
佐々木貴子
春の月が大きい。少し潤んで見えるこの頃の月の美しさ。厳しくさえ返っていた冬月とは明らかに違う。掲載句の「背中」の主体は春月だろうか。軽い切れがあるとすると月を眺めている人の背中とも考えられる。華やかな月の美しさと対照的に「この汚れ」が妙に納得できるのは月の裏側の暗黒が想起されるからだろうか。現実世界の「汚れ」を「よし」と肯定的にとらえることで、春月の美しさがより輝きすようだ。その手法に芭蕉の「月見する坐にうつくしき顔もなし」という句なども思い浮かぶ。さて今夜はどんな春月が見られるだろうか。『ユリウス』(2013)所収。(三宅やよい)
October 182014
なによりも会いたし秋の陽になって
佐々木貴子
晩秋の日差し、遠くなつかしいその色合いと肌ざわりは自分の中で季節が巡ってくるたびに、ああ、と思いあれこれ作っては消えるテーマの一つになっている。この句は、なかなか言葉にならなかった一コマを浮かび上がらせてくれた気がして、そんな気がしたことに自分で驚いた句である。会いたい、という主観が前面に出ているし、一文字が語りすぎるからなるべく、陽、ではなく、日、を使う方がよい、と言われて来たのだがそれらを超え、光の色が広がる。なによりも、と、会いたし、のたたみかける強さと、陽、の持つ明るさがありながら、そこに広がる光は不思議なほど静かに心象風景とシンクロしたのだが、読み手によって印象が違うと思われ、それも魅力だろう。『ユリウス』(2013)所収。(今井肖子)
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