野球のない日は心が平穏に。でも、やっばりさびしいな。(哲




2014ソスN4ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2142014

 車椅子まなこ閉じれば春が消え

                           有山兎歩

の三年ほどで徐々に歩行が困難になってきて、このままでは車椅子の世話になりそうだなと思っている。そうなったときの状態をいろいろと想像はしてみるのだが、しかし想像と実際とでは、必ずや大きくかけ離れた部分が出てくるだろう。作者は入院先で、車椅子生活を余儀なくされた。句意は解釈するまでもないだろうが、ここで私などが驚かされるのは、「まなこ閉じれば春が消え」という単純な事実に対してである。目をつぶれば何も見えなくなる。当たり前だ。しかし、私たちの文学的表現にあっては、目を閉じるからこそ何かが見えてくると言ってきた。長谷川伸の『瞼の母』ではないが、実の母親に邪険にされても、番場の忠太郎にはいつだって「優しかったころの母の姿」が、瞼を閉じさえすれば見えてくるのだった、というふうに…。車椅子利用者は、歩行の自由を失った人だ。そうした人が歩行の自由を夢見るかというと、そういうことはないのだと、掲句は告げているのだと思う。忠太郎は母を恋うているから見えるのだし、作者は歩行の自由を諦めているから何も見えないのである。つまり瞼を閉じて何かが見えるか見えないかは、その対象に対して諦念を持つかどうかに関わっていて、歩行不可能者が歩行を諦めるのは、いつまでもこだわっていては生きていけないからである。春が楽しいと思えるのは、野山を自由に歩き回れる健常者だけの謂であり、私たちの周囲には、そうした春を諦めた多くの人々が存在することを知るべきだろう。『有山兎歩遺句集』(2014)所収。(清水哲男)


April 2042014

 さへづりのさざなみ湖の彼方より

                           青柳志解樹

にいると、何種類もの鳥のさえずりを耳にする季節になりました。同時に、カラスと鴬の鳴き声くらいしか判別できない我が身のふがいなさを反省するこの頃です。受験勉強や試験を人よりも多く経験してきた身にとって、(浪人、留年が永かったので)雑多な知識は人並みに備えたものの肝心の花の名、鳥の鳴き声の判別はいまだおぼつかないままです。ただ、野山を一人歩くとき、尺八を持参して吹くとそれに呼応してくれる鳥たちもいて、しかし、その鳥の名がわからないジレンマを抱えつつ吹き続けるのみです。最近の大学入試では英語のヒアリングが導入されていますが、いっそのこと、鳥のさえずりの判別を試験にするような粋な入試が始められてもいいのではないでしょうか。少なくとも、生物や環境を専攻する人たちにとっては有効と思われます。掲句は実景のようでもあり、虚構のようでもあります。そのすれすれのところ、虚実皮膜之間(近松門左衛門)の面白みがあります。実景として考えるなら、湖の向こうの森から様々な鳥のさえずりが聞こえています。そのさえずりが湖面にさざ波を立てているように見えるわけで、一見写生句です。しかし、実際のさざ波は風によって立った波で、さえずりがさざ波を立てるはずがありません。ここに、作者の想念の中で起こる跳躍がありました。さえずりがさざ波を立てている。実景を目の前にしながら俳句を虚構化することで、彼方よりやって来た春の広がりを耳から目に伝えています。『楢山』(1984)所収。(小笠原高志)


April 1942014

 落花いま紺青の空ゆく途中

                           成瀬正俊

朝ベランダから見ていた遠桜も緑になれば一枚の景に紛れてしまう。いつもなら、代わって盛りとなった花水木の並木道を歩きながら桜のことはとりあえず忘れてゆくのだが、今年は複雑な思いが残った。それは先週末、吉野山で満開の山桜に圧倒されていたからだ。しかも、二日間居てその万朶の桜が全くゆるがず、信じられないほど散らなかったのだ。散ってこその花、とは勝手な言い草ではあるけれど、これほどの桜が花吹雪となって谷に散りこんだら、という思いを抱いたまま帰途につき今日に至った。そして、未練がましいなと思いながら『花の大歳時記』(1990・角川書店)の「落花」の項を見ていて、掲出句の生き生きとした描写に一入惹かれたというわけだ。青空を限りなく渡ってゆく花、その風の中にいるような心地は、途中、の一語が生むのだろう。花の吉野山に湧き上がっていた桜色を心の中で一斉に散らせて、いつかそんな風景に出会えることを願っている。(今井肖子)




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