天気は下り坂。せっかくの大型連休なのだから、もってほしいな。(哲




2014ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552014

 子を発たす立夏の駅の草の丈

                           石井直子

日は「立夏」。子を「発たす」とあるから、遠くの地に行く子を、駅まで見送っている母親の句だ。この時季だから、おそらく大型連休を利用して帰省していた子が、普段の生活の場に戻っていくのだろう。新入社員かもしれないし、大学生かもしれない。べつに永の別れではないのだから、「見送りなんて大袈裟だよ」くらいは言われたろうが、そうもいかないのが母心である。私の勤め人時代の同僚も、そんな母親を持っていた。今度子が戻ってくるのは、夏季休暇のときだ。日頃は気にもとめない「駅の草」に気がついた作者は、次に会えるときにはこの草の丈もずいぶんと伸びているだろうと、早くもその日を待ちかねているようだ。この「丈」は子供の生長の様子にかけられていて、夏めいてきた季節の明るい別れにふさわしい発語と言えるのでなかろうか。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


May 0452014

 蒲公英の気ままに育つ花時計

                           澤田緑生

公英(たんぽぽ)は自由だ。梅のつぼみがふくらみ始める初春、ひょっこり咲く一輪を見つけることがある。土筆が生える仲春には、土手や河原に点在する黄色を見つけられる。桜が散り、ツツジが咲きほこる今も、公園の植え込みや、道路の緩衝地帯で目にすることができる。子どもは、綿毛になった茎を折って、一気に息を吹きかける。種子は飛散するが、翌春、どの地に根を張るかは風まかせだ。一代限りの潔い生。人の手を借りずに地をはびこる種の生命力は、黄色く点在している。それは、綺麗に整備された花時計にも落下して、制服を着せられた児童に交じる野生児のように無邪気だ。花時計に限らず、花壇のチューリップも、梅もツツジもソメイヨシノも人が手を入れ育てた春だが、蒲公英は、今年の春風が、来年の居場所を決めてくれる気ままな育ちだ。この花こそ、春を運び、春の終わりを告げる花と思う。今日、みどりの日、タンポポに出会えるだろうか。『極光』(1992)所収。(小笠原高志)


May 0352014

 暖かき雨の降りをり鍋に穴

                           玉田憲子

のアルミの鍋は使っているうちに小さな穴が開いてしまうことがあった。吹きこぼれてもいないのにジュージュー音がするので、おかしいなと鍋を洗って透かして見ると光が漏れている。しばらくその光を見つめつつ、少し情けなくもありながら、この鍋もよく使ったなあと感慨深かったりしたものだ。雨が降っているというかすかな憂鬱、でもそれが春の雨であるという明るさ、その両方をつなぐ小さな鍋の穴である。なべにあな、とつぶやくとなんとなく微笑んでしまう。気がつけば我が家の台所にはもう古いアルミ鍋はなく、穴をあけるなんてとても無理という厚底鍋ばかりになってしまったが。『chalaza』(2013)所収。(今井肖子)




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