めったに遠出をしないのと加齢の影響で、なかなか疲れがとれない。(哲




2014ソスN5ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1352014

 綿津見の鳥居へ卯浪また卯浪

                           藤埜まさ志

波とは陰暦四月、卯月の波のことだが、決して静かな波ではなく、晩春から初夏にかけての低気圧によって立つ白波をいう。綿津見(わたつみ)に立つ鳥居といえば、まよわず宮島の大鳥居が浮かぶ。淡々と景色を写生した掲句だが、口にすればたちまち海の深い青、続けざまに寄せる波頭の白、そして鳥居の朱色が眼前に立ち現れる。それは合戦の昔から図絵に描かれた景色であり、また世界文化遺産となって残る今日の景色でもある。目にも鮮やかな鳥居の朱色は邪気を祓うと同時に、丹を塗ることで腐食も防ぐという実利も兼ね備えていた。先人の知恵と工夫が日本人の美意識として引き継がれ、またそれを言葉にして愛でることができる喜びが潮のように胸に満ちる。『火群』(2014)所収。(土肥あき子)


May 1252014

 田を植ゑてゐるうれしさの信濃空

                           矢島渚男

濃川流域に広がる田園風景をはじめて見たときには、心底衝撃を受けた。旅の途中の列車の窓からだったが、どこまでもつづく広大な田圃に、故郷山口のそれとは比較にならないスケールに圧倒されたのだった。私が子どもの頃に慣れ親しんだ田圃は、信州のそれに比べれば、ほんの水たまりみたいなものだった。千枚田とまではいかないが、山の斜面に張りついた小さな田圃になじんだ目からすると、その広がりに眩暈を覚えるほどであった。と同時にすぐに湧いてきた思いは、農家の子の悲しき性で、この広い田圃の田植や収穫の労働は大変だろうなということでもあった。そんなわけで、この句を前にした私の気分は少し複雑だ。「植ゑてゐる」のは自分ではあるまい。作者は、広大な田圃ではじまった田植を遠望している。反対に、私の田舎の田植は遠望できない。植えている人に声をかければ、届く距離だ。したがって、田植を見る目には、空が意識されることはない。目の前は、いつも山の壁なのである。私には句の「うれしさ」を満々と反映している信濃の空のありようは想像できるけれど、想像すると少し寂しくなる。腰を折り曲げての辛い労働に、すかっと抜ける空があるのとないのとでは大違いだなあ。そんなことを思ってしまうからである。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


May 1152014

 母の日の祖母余所行着をすぐに脱ぐ

                           池田澄子

日は母の日。『新日本大歳時記』によると、もとは米国ウェブスターに住むアンナ=ジャービスが母を偲ぶため白いカーネーションを教会の人々に分けたのが始まりで、1914年5月にウィルソン大統領によって母の日と定められた、とあります。掲句は作者が少女の頃でしょう。祖母が外出先から帰ってきて、余所行着(よそゆき)をすぐに脱ぎ、大事に仕舞ってから普段着に着替えるその素早さを記憶しています。祖母にとって母の日は名ばかり。かつての母は、手を動かしながら家中をくまなく動き回っていました。家電が流通する以前の暮らしでは、衣・食・住のすべてが手間ひまかかる手仕事です。繕い物の針仕事、早朝の煮炊き、はたき・ほうき・ぞうきんがけ。手を動かしながら次の手仕事を見つけ 、それがまた、次の動きにつながります。その経験の積み重なりがおばあちゃんの知恵袋を作っていったのでしょう。掲句の祖母が「余所行着をすぐに脱ぐ」のは、普段着という仕事着に着替え、家庭のプロフェッショナルへと切り替わるスイッチのオンなのです。これぞ主婦のプロ。その記憶を孫に伝えています。かつての少女は、おそらく祖母の齢を越えて、その素早い替わり身を受け継いでいるのでしょう。なお、中七のほとんどを漢字にしたのは外出を暗示した工夫と読みました。『池田澄子句集』(ふらんす堂・1995)所収。(小笠原高志)




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