東京地方は、そろそろ梅雨の走りか。天気も気温もみだれがちに。(哲




2014ソスN5ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1652014

 青あらし電流強く流れをり

                           波多野爽波

嵐は、青葉の茂ることに吹く強い風。電線が風に揺られるくらいの風だったのだろう。しかしながら、爽波は電線の描写などはしない。目に見えない「電流」を描写する。この句「青嵐/電流」までで、すでにひとつの情景は描かれてしまっている。それに「強く流れをり」とダメ押しをする。「青嵐」と「電流」がぶつかり合って、火花を散らし合うような激しさを持った一句である。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


May 1552014

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

床を子どもたちがのぞきこんでいる。その中に見かけない子がいるがどこの子だろう。句意とすればそれだけのものだろうが、このパターンは句会でもよく見かける。ベースになっているのが誰の句かな、と思っていたら素十の句だった。「苗床」が焚き火になっていたり、盆踊りになっていたり季語にバリエーションはあるけれど見知らぬ子がまじっているパターンは一緒だ。類句がつまらないのは、この句の下敷きになっている村の共同体がもはや成り立たないからだろう。子供神輿の担ぎ手がいなくて祭りの体裁を整えるのに縁もゆかりもない土地から子供に来てもらうこの頃である。子供のいない村では「どこの子か」どころではない。この句が持っているぬくもりは今や遠い世界に感じられる。『雪片』(1952)所収。(三宅やよい)


May 1452014

 地球儀のあをきひかりの五月来ぬ

                           木下夕爾

の開花→満開→花吹雪、桜前線北上などと、誰もが桜にすっかり追いまわされた四月。その花騒動がようやくおさまると、追いかけるように若葉と新緑が萌える五月到来である。俳句には多く「五月かな」とか「五月来ぬ」「五月来る」と詠まれてきた。世間には一部「五月病」なる病いもあるけれど、まあ、誰にとっても気持ちが晴ればれとする、うれしい季節と言っていいだろう。「少年の素足吸ひつく五月の巌」(草間時彦)という句が思い出される。最近の新聞のアンケート結果で、「青」が最も好まれる色としてランクされていた。「知的で神秘的なイメージがあり、理性や洗練を表現できる」という。世界初の宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という名文句があったけれど、地球儀だって見方によって、風薫る五月には青く輝いて見えるにちがいない。地球儀が青い光を発しているというわけではないが、外の青葉若葉が地球儀に映っているのかも知れない。ここは作者の五月の清新な心が、知的な青い光を発見しているのであろう。夕爾は他にも、地球儀をこんなふうに繊細に詠んでいる。「地球儀のうしろの夜の秋の闇」。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)




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