明日からの交流戦。阪神はいきなり首位オリックスにぶちあたる。(哲




2014ソスN5ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1952014

 若竹のつういつういと伊那月夜

                           矢島渚男

来「つういつうい」は、ツバメや舟などが勢いよく滑るように、水平に移動する様子を指しているが、この句では若い竹の生長するさまについて用いられている。水平ではなく垂直への動きだ。なるほど、竹の生長の勢いからすると、たしかに「つういつうい」とは至言である。元気いっぱい、伸びやかな若竹の姿が彷彿としてくる。しかも、時は夜である。月の雫を吸いながらどこまでも伸びていく竹林の図は、まことに幻想的ですらあって、読者はある種の恍惚境へと誘われていく。そして舞台は伊那の月夜だ。これまた絶好の地の月夜なのであって、伊那という地名は動かせない。しかも動かせない理由は、作者が実際に伊那での情景を詠んだかどうかにはさして関係がないのである。何故なのか。かつての戦時中の映画に『伊那節仁義』という股旅物があり、主題歌の「勘太郎月夜唄」を小畑實が歌って、大ヒットした。「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に しのぶ今宵の ほととぎす」(佐伯孝夫作詞)この映画と歌で、伊那の地名は全国的に有名になり、伊那と言えば、誰もが月を思い浮かべるほどになった。句は、この映画と歌を踏まえており、いまやそうしたことも忘れられつつある伊那の地で、なお昔日のように月夜に生長する若竹の姿に、過ぎていった時を哀惜しているのである。『木蘭』(1984)所収。(清水哲男)


May 1852014

 松が枝をくぐりて来たり初扇子

                           桂 信子

客を詠んだ句でしょうか。そうならば、挨拶句と言えそうです。俳句は短い形式なので、句の中にドラマを盛り込むことは簡単ではありません。掲句にもドラマ性はありませんが、来客の身体の動きは伝わります。これが、「松が枝」を舞台にして「扇子」を持って舞う踊り手のような印象を与えています。一句が地唄舞の歌詞のようになっていて、松が枝をくぐり抜けてこちらへやって来る所作はたをやかです。この粋客は、たぶん着物に白足袋、草履をはいて、扇子を手にしています。ところで、日本舞踊の修練は、日常の立居振舞を洗練することにあり、同時にそれが目的であると聞き及んでいます。その身体は屈んだり、畳んだり、折り込んだりする仕舞いの動作で、西洋のバレエダンサーが天に向けて身体を開くのとは対照的な、内へと向かう所作です。そうならば、扇子を手にするということは、折り畳み、仕舞い込む品性を持つことの象徴とも考えられます。掲句の粋客は、作者にとって、今年初めて目にする扇子を手にしています。初夏を運ぶ客に対する挨拶句と読みました。『樹影』(1991)所収。(小笠原高志)


May 1752014

 修道女薔薇みることもなくて過ぐ

                           青柳志解樹

豆高原の自営の薔薇園で自ら撮影した薔薇の写真と、八十余名の作家の薔薇の句を集めた『薔薇の俳句1000句& PHOTOGRAPHS of THE ROSES』(2001・みちのく発行所)の前書きによると、近代の薔薇は「人間の愛情に応え、人間社会に歩みよって来た」のだという。薔薇を慈しみ育て続けていた著者の言葉は、薔薇は咲き誇るもの、といった先入観を取り払ってくれる。そんな薔薇のひたむきな美しさに立ち止まることもなく修道女は通り過ぎる。みることもなくて、の軽い切れに、この句の作者の薔薇への視線が修道女に向けられた一瞬が感じられる。その瞬間、修道女の視線も薔薇をとらえて、薔薇の輝きに心が動いたことだろう。(今井肖子)




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