腕時計が17分も進んでしまった。時間調節の仕方を失念し、困った。(哲




2014ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052014

 ひばり揚がり世は面白きこともなし

                           筑紫磐井

白いとは不思議な言葉だ。語源は面は目の前、白は明るさを意味し、目の前がぱっと開けるような鮮やかな景色をさした。のちに美しいものを見たことで晴れ晴れとする心地や、さまざまな心の状態も追加され、滑稽まで含む多様性を持つ言葉となった。面白いかどうかとは、すなわちそれを探求あるいは期待する心が言わせる言葉なのだろう。掲句がともすると吐き捨てるような言い回しになってしまうところを救っているのが、軽快なひばりの姿である。空へとぐんぐん上昇する雲雀を目を追っていることで、鬱屈した乱暴さから解放された。時代を経て付け加えられ、ふくらみ続ける「面白い」に、またなにか新しい側面を見ようとする作者の姿がそこに見えてくる。『我が時代』(2014)所収。(土肥あき子)


May 1952014

 若竹のつういつういと伊那月夜

                           矢島渚男

来「つういつうい」は、ツバメや舟などが勢いよく滑るように、水平に移動する様子を指しているが、この句では若い竹の生長するさまについて用いられている。水平ではなく垂直への動きだ。なるほど、竹の生長の勢いからすると、たしかに「つういつうい」とは至言である。元気いっぱい、伸びやかな若竹の姿が彷彿としてくる。しかも、時は夜である。月の雫を吸いながらどこまでも伸びていく竹林の図は、まことに幻想的ですらあって、読者はある種の恍惚境へと誘われていく。そして舞台は伊那の月夜だ。これまた絶好の地の月夜なのであって、伊那という地名は動かせない。しかも動かせない理由は、作者が実際に伊那での情景を詠んだかどうかにはさして関係がないのである。何故なのか。かつての戦時中の映画に『伊那節仁義』という股旅物があり、主題歌の「勘太郎月夜唄」を小畑實が歌って、大ヒットした。「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に しのぶ今宵の ほととぎす」(佐伯孝夫作詞)この映画と歌で、伊那の地名は全国的に有名になり、伊那と言えば、誰もが月を思い浮かべるほどになった。句は、この映画と歌を踏まえており、いまやそうしたことも忘れられつつある伊那の地で、なお昔日のように月夜に生長する若竹の姿に、過ぎていった時を哀惜しているのである。『木蘭』(1984)所収。(清水哲男)


May 1852014

 松が枝をくぐりて来たり初扇子

                           桂 信子

客を詠んだ句でしょうか。そうならば、挨拶句と言えそうです。俳句は短い形式なので、句の中にドラマを盛り込むことは簡単ではありません。掲句にもドラマ性はありませんが、来客の身体の動きは伝わります。これが、「松が枝」を舞台にして「扇子」を持って舞う踊り手のような印象を与えています。一句が地唄舞の歌詞のようになっていて、松が枝をくぐり抜けてこちらへやって来る所作はたをやかです。この粋客は、たぶん着物に白足袋、草履をはいて、扇子を手にしています。ところで、日本舞踊の修練は、日常の立居振舞を洗練することにあり、同時にそれが目的であると聞き及んでいます。その身体は屈んだり、畳んだり、折り込んだりする仕舞いの動作で、西洋のバレエダンサーが天に向けて身体を開くのとは対照的な、内へと向かう所作です。そうならば、扇子を手にするということは、折り畳み、仕舞い込む品性を持つことの象徴とも考えられます。掲句の粋客は、作者にとって、今年初めて目にする扇子を手にしています。初夏を運ぶ客に対する挨拶句と読みました。『樹影』(1991)所収。(小笠原高志)




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