PC遠隔操作事件。河川敷でのあまりに幼稚なトリック操作に唖然。(哲




2014ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152014

 萬緑やあの日の父を尾行せむ

                           間村俊一

の花にうつつをぬかし、初夏の花にオヤオヤと見とれているうちに、いつの間にか日々ふくらむ新緑が私たちの目を細めさせる。そして萬緑がまなこになだれこむ季節の到来である。掲句の中七〜下五の中味は穏やかではない。そのくせどこかしら「フフフフ」とわいてくるモノがある可笑しさ。「あの日の父」に何があったのかは誰にもわからない。しかし、たしかに何かしらあったのだ。オトナにはオモテがあればウラがある。「その日」すぐにでなくとも、のちのちずっと「父を尾行せむ」という気持ちが消えることはない。ナゾが残れば残るほど、尾行したい気持ちはつのるいっぽうであろう。「いやいや、尾行なんかしたくない」という気持ちもいっぽうにはあろう。何かしらあったにせよ、なかったにせよ、父を探ってみたい気持ちが息子にあるのは何ら不思議なことではない。しかも萬緑がむせるような季節である。ひそかに尾行されている父よ、父を尾行している息子よ、両人とも十分お気をつけくださいまし。生まれる二ヶ月前に父を亡くした私などには、加齢とともにそれとなく、日々まぼろしの父を尾行しているような気持ちがしている。俊一には、他に父を詠んだ「はゝこ草父の知らざる母の嘘」がある。『抜辨天』(2014)所収。(八木忠栄)


May 2052014

 ひばり揚がり世は面白きこともなし

                           筑紫磐井

白いとは不思議な言葉だ。語源は面は目の前、白は明るさを意味し、目の前がぱっと開けるような鮮やかな景色をさした。のちに美しいものを見たことで晴れ晴れとする心地や、さまざまな心の状態も追加され、滑稽まで含む多様性を持つ言葉となった。面白いかどうかとは、すなわちそれを探求あるいは期待する心が言わせる言葉なのだろう。掲句がともすると吐き捨てるような言い回しになってしまうところを救っているのが、軽快なひばりの姿である。空へとぐんぐん上昇する雲雀を目を追っていることで、鬱屈した乱暴さから解放された。時代を経て付け加えられ、ふくらみ続ける「面白い」に、またなにか新しい側面を見ようとする作者の姿がそこに見えてくる。『我が時代』(2014)所収。(土肥あき子)


May 1952014

 若竹のつういつういと伊那月夜

                           矢島渚男

来「つういつうい」は、ツバメや舟などが勢いよく滑るように、水平に移動する様子を指しているが、この句では若い竹の生長するさまについて用いられている。水平ではなく垂直への動きだ。なるほど、竹の生長の勢いからすると、たしかに「つういつうい」とは至言である。元気いっぱい、伸びやかな若竹の姿が彷彿としてくる。しかも、時は夜である。月の雫を吸いながらどこまでも伸びていく竹林の図は、まことに幻想的ですらあって、読者はある種の恍惚境へと誘われていく。そして舞台は伊那の月夜だ。これまた絶好の地の月夜なのであって、伊那という地名は動かせない。しかも動かせない理由は、作者が実際に伊那での情景を詠んだかどうかにはさして関係がないのである。何故なのか。かつての戦時中の映画に『伊那節仁義』という股旅物があり、主題歌の「勘太郎月夜唄」を小畑實が歌って、大ヒットした。「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に しのぶ今宵の ほととぎす」(佐伯孝夫作詞)この映画と歌で、伊那の地名は全国的に有名になり、伊那と言えば、誰もが月を思い浮かべるほどになった。句は、この映画と歌を踏まえており、いまやそうしたことも忘れられつつある伊那の地で、なお昔日のように月夜に生長する若竹の姿に、過ぎていった時を哀惜しているのである。『木蘭』(1984)所収。(清水哲男)




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