新祝日「山の日」は8月11日に。となると、秋の季語になるね。(哲




2014ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352014

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

祇に「山吹や葉に花に葉に花に葉に」の句がある。山吹の花が咲いている様子を描写したものだ。爽波の句は、太祇の句を思い出させるが、情景は全く異なっている。爽波の句は山吹の花と葉が、ちぎり捨ててある情景を詠っている。意味的には、「山吹の花と葉とちぎり捨てあり」だが、定型に収まるように、倒置法を用いている。前半の「ちぎり捨てあり」で一呼吸休止して、「山吹の花と葉」がおもむろに提示される。爽波写生句の代表作である。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


May 2252014

 初夏やきらめくわたしのフライ返し

                           関根誠子

ライ返し!日々使うことはあってもその存在自体まじまじと意識したことはない。お玉や菜箸と並んで壁に吊り下げられて出番を待っている金属のへらが初夏の光を受けてきらめいている。普段は気にも留めないフライ返しの輝きに、はっとした作者の気持ちが伝わってくる。玉子焼をひっくり返して、チャーハンを炒めてと、フライ返しは家族の食事を作るのに欠かせない道具。そう思えばほかの誰でもない「わたしの」と強調したい気持ちが同じ主婦としてよくわかる。生活の一部になっているものを季節の訪れとともに、見返して愛おしむこともこの詩形ならではの働き。ただごとに終わるか、新鮮な発見になるかは紙一重だろうが、一瞬の心の動きと愛情が読み手に伝われば十分ではないか。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


May 2152014

 萬緑やあの日の父を尾行せむ

                           間村俊一

の花にうつつをぬかし、初夏の花にオヤオヤと見とれているうちに、いつの間にか日々ふくらむ新緑が私たちの目を細めさせる。そして萬緑がまなこになだれこむ季節の到来である。掲句の中七〜下五の中味は穏やかではない。そのくせどこかしら「フフフフ」とわいてくるモノがある可笑しさ。「あの日の父」に何があったのかは誰にもわからない。しかし、たしかに何かしらあったのだ。オトナにはオモテがあればウラがある。「その日」すぐにでなくとも、のちのちずっと「父を尾行せむ」という気持ちが消えることはない。ナゾが残れば残るほど、尾行したい気持ちはつのるいっぽうであろう。「いやいや、尾行なんかしたくない」という気持ちもいっぽうにはあろう。何かしらあったにせよ、なかったにせよ、父を探ってみたい気持ちが息子にあるのは何ら不思議なことではない。しかも萬緑がむせるような季節である。ひそかに尾行されている父よ、父を尾行している息子よ、両人とも十分お気をつけくださいまし。生まれる二ヶ月前に父を亡くした私などには、加齢とともにそれとなく、日々まぼろしの父を尾行しているような気持ちがしている。俊一には、他に父を詠んだ「はゝこ草父の知らざる母の嘘」がある。『抜辨天』(2014)所収。(八木忠栄)




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