今日は清水昶の命日「野の舟忌」。夕刻より吉祥寺で偲ぶ会。(哲




2014N530句(前日までの二句を含む)

May 3052014

 大空は微笑みてあり草矢放つ

                           波多野爽波

胆な擬人法である。「大空は微笑みてあり」だから、晴れ渡った空だったのだろう。あと、草矢遊びに興じている子供の心情まで、喩えているように思う。「草矢」は芒や葦などの葉を縦に裂き、指に挟んで、飛ばすこと。高さや飛んだ距離を競ったりする。この句、下五の部分が、「クサヤハナツ」と一音字余りになっている。その一音の時間の流れが、飛んでいく草矢の時間を彷彿させる。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


May 2952014

 風に落つ蠅取リボン猫につく

                           ねじめ正也

取リボンとは懐かしい。私が小さい頃は魚屋の店先にぶら下がっていた。同句集には「あきなひや蠅取リボン蠅を待つ」という句も並んでいる。あの頃、生ごみは裏庭に掘った穴に放り込んでいた。昼間でも暗い台所には蠅が多かった気がする。頭のまわりをうるさく飛び回っていたあの蠅達はどこへ消えたのだろう。それにしても「蠅取リボン」という名前自体が俳諧的である。真っ黒になるぐらいハエのついた汚いものをリボンと呼ぶのだから。風に翻ったハエ取りリボンが落ちて昼寝をしていた猫の背中につく。身をくねらせてリボンをとろうとするがペタペタペタペタリボンは猫の身体にまとわりつき猫踊りが始まる。追い立てられてリボンを巻きつけたまま外へ飛び出してゆく猫。そんな路地の1コマが想像される句である。『蠅取リボン』(1991)所収。(三宅やよい)


May 2852014

 大いなる雲落ち来る夏野かな

                           会津八一

の晴れあがった日の平野部。見渡すと東西南北ぐるりとまんべんなく彼方に、雲がもくもく盛りあがっている。視界いっぱいの夏だ。白い雲が鮮やかにまぶしく湧いているぶんには結構だけれど、それがにわかに黒雲に変貌したりして、突然冷ややかな風が起こってくると、昨今の気象は雹が降ったり、雷雨や竜巻が発生したりして油断ができない。「大いなる雲」はぐんぐん盛りあがっていたかと思うと、大瀑布が襲いかかるように、夏野にかぶさるように、容赦なく天から「落ち来(きた)る」というのだ。まさに「落ち来る」。高く広々とした夏野のダイナミズムに、圧倒されるようである。それまで夏野に散らばっていた人びとは、あわてて走り出しているのかも知れない。こんな光景を前にしたら、書家・八一先生は「雲」という文字をどんなふうに書きあげただろうか、と妙な興味をそそられる。まさに「大いなる」句姿である。掲句と並んでいて対になるような句「白雲の夏野の果てや村一つ」は、同じときの作かと思われる。『新潟県文学全集』第II期6(1996)所収。(八木忠栄)




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