June 082014
紫陽花や私の知らぬ父がいる
田頭理沙
知らぬ間に、紫陽花(あじさい)を目にする季節になりました。梅雨どき、青空が見えない日でも青紫の色あいを見せて楽しませてくれます。紫陽花の咲き方は突然の来訪者に似ていて、気づいたら賑やかに路傍の座を占めています。七変化、手まり花、四ひら花など、呼ばれ方も多様なところは愛でられている証しです。作者田頭さんは、当時愛媛県伯方高校の二年生。父親との距離は微妙な多感な時期です。それゆえ句は切れていて、スーッと入ってきて、サッパリとした読後感があります。一般的に、父と娘は包み包まれる関係から出発します。娘からすれば父に従属している関係で、それは、父親という大きな揺り籠に抱かれているような揺籃期です。しかし、思春期に入ると、娘は揺り籠から外に出て、父親を距離のある他者として捉えはじめます。つまり、親子関係から、人生の先輩と後輩の関係へ、または、最も身近な男性として観察の対象となっていく時期にさしかかります。子どもが成長するときは、知らなかった経験をするときですが、田頭さんは、父を通して未知の社会と性差を感受しているのではないでしょうか。それは、紫陽花が七変化するように自身を幻惑させています。同時にそれは、私の知らぬ私との出会いでもあるでしょう。紫陽花は、思春期のとまどいを象徴する花として、人生の初夏に向かって生きる青春を詠んでいます。「私の知らぬ」で切れているところに、娘と父の距離が示されています。『17音の青春 2012』所載。(小笠原高志)
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