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July 0172014

 汗の胸富士より風の吹きおろす

                           竹村翠苑

士が霊峰と呼ばれる由縁は、噴火による驚異を鎮めるため、山をまるごとご神体としたことによる。浅間大社が祀られた頂上へ登拝することで災難から免れ、また崇高なるものとの一体感を満喫する。登山の際のかけ声である「六根清浄お山は晴天」の六根とは目鼻耳などの身体であり、そこから生じる欲や迷いを脱し、清浄な精神を得ることを願うという意味からなる。富士山頂から吹きおろす風を胸に受けたことで、清涼感とともに、五体すみずみまで霊峰の力が行き渡る心地を味わっている。本日山開き。〈電子レンジ十秒蝗しづもりぬ〉〈御柱祭男見るなら諏訪に来い〉『摘果』(2014)所収。(土肥あき子)


July 0872014

 五十音の国に生まれて生きて鮎

                           宮崎斗士

名でも国名でも、なんでも五十音順に揃っていると意味もなくほっとする。学校などでも出席番号が名字の五十音順だったことから、今でも天野さんはいつも早く呼ばれて、中村さんは真ん中へん、渡辺さんはおしまいの方だったんだろうと、無意識のうちに五十音図をあてはめている。北原白秋の詩「五十音」は、「あめんぼ赤いな、あいうえお」から始まるが、あめんぼって黒いよね、などと疑問も持たずに覚えていた。いまや何にでも対応する五十音表の魚部門でいえば「鮎」はかなり上位である。掲句によって縄張り意識が強い魚であることも知られる鮎が、清流のなかでその名をいかにも誇らしげにすいすいと泳いでいる姿が浮かぶ。鮎は荒くれ、あいうえお、ではどうだろう。『そんな青』(2014)所収。(土肥あき子)


July 1572014

 言霊の力を信じ滝仰ぐ

                           杉田菜穂

辞苑には言霊(ことだま)は「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」と解説される。日本の美称でもある「言霊の幸ふ国」とは、言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国であることを意味する。沈黙は金、言わぬが花などの慣用句も言葉とは聖にも邪にもなることから生まれたものだ。そして滝の語源はたぎつ(滾つ)からなり、水の激しさを表し、文字は流れ落ちる様子を竜にたとえたものだ。胸底にたたむ思いも、また波立つもののひとつである。さまざまな思いを胸に秘め滝を仰ぐ作者に、水の言霊はどのような姿を見せてるのだろうか。〈猫好きと犬好きと蟇好き〉〈ウエディングドレスのための白靴買ふ〉『砂の輝き』(2014)所収。(土肥あき子)


July 2272014

 夏あざみ真昼間も星動きつつ

                           塩野谷仁

しい花に惹かれて伸ばした手に葉の鋭いとげが刺さることから、「欺(あざむ)く」が語源といわれるあざみ。夏のあざみは一層猛々しく茂る葉のなかで守られながら、愛らしい玉房飾りのような花を天に向かって開く。色彩も青紫、深紅など目を引くあざやかなものが多いが、それらはどれも華美というよりどこか悲しみをまとって咲いているように思われる。鋭いとげに守られたあざみの孤独が、青空の奥にしまいこまれた星を感じることで静かに伝わってくる。〈緑陰を出て緑陰に入り休日〉〈虹二重人影にひと追いつけず〉『私雨』(2014)所収。(土肥あき子)


July 2972014

 あっちこっち「う」の字が泳ぐうなぎの日

                           山本直一

日土用丑。ここ数年鰻の稚魚が不漁のため価格高騰が続いたが、今年は豊漁という嬉しいニュースがあった。掲句の「う」はもちろんうなぎ屋の店先に掛かる暖簾に描かれたうなぎの「う」。デザイン化されたものはみごとな鰭や尾までついている。やはり日本の暑気払いにはこれでしょう、とばかりに紺地の暖簾に白抜きの「う」の字が涼やかに客足を招いている。というわけで今年こそいざいざ、と胸を踊らせていたところだが、先月ニホンウナギが絶滅危惧種としてレッドリスト改訂版に記載されたことが報じられた。鯰も蒲焼きにすれば同じような味だという。そうかもしれない。自然保護も大切である。ああしかし、それでもやっぱり……と、鰻食いの筆者にとって、今年はなおさら「う」の字の尻尾があっちこっちに跳ねて見える。『鳥打帽』(2014)所収。(土肥あき子)


August 0582014

 天国は駅かもしれず夏帽子

                           阿部知代

くなった方を悼むとき、残された者の悲しみより前に、病や老いの苦しみから解放されたことに安堵したいと思う。自由になった魂の行方を思うと、少しだけ気持ちが明るくなる。天国とは、死ののちの出発点でもある。そこからさまざまな行き先を選び、もっとも落ち着く場所へと扉が開かれることを思い、作者はまるで駅のようだと考える。仰々しい門のなかの最後の審判や、三途の川の向こうの閻魔様の裁きなどとは無縁の軽やかだった人の死に、駅とはなんとふさわしい場所だろう。何も言わず長い旅に出てしまった人に向けて明るく夏帽子を振ってみる。前書に悼九条今日子。改札には夫であった寺山修司が迎えに来ていたかもしれない。「かいぶつ句集」(2014年6月・第77号)所載。(土肥あき子)


August 1282014

 指の力殺してブルーベリー摘む

                           平石和美

本で本格的な栽培が始まったから30年余り、栄養価の高い健康食品として、またジャムや菓子などの材料として定着したブルーベリー。いまや、農園での収穫体験や、家庭の庭木にも栽培されることから、手軽にその果実を手にすることができる。ブルーベリーは蔓性の植物で、果実は木苺と同じように指先で触れればたやすく萼から離れる。息や気配など、感情を努力して押さえる意味で使われる「殺す」を、掲句では指先の微妙な力加減で使用しているが、やはり一読ぎょっとさせる効果がある。ブルーベリーの果実のやわらかさゆえのあやうさが表現され、力を込めてしまいたくなる相反する気持ちがどこかで芽生えていることも感じさせる。〈顎引いて蝗もつともらしき貌〉〈縞馬の鬣の縞秋うらら〉『蜜豆』(2014)所収。(土肥あき子)


August 1982014

 天の扉を開けて星降るビアガーデン

                           工藤 進

うまでもないことながら、ビアガーデンの定義は屋外である。開放的な空間で、わいわいがやがやとジョッキを掲げる。ビアガーデンの発祥は昭和12年、ニュートーキョー数寄屋橋本店屋上だといわれ、以来毎年の夏の都心を彩ってきた。冷房完備、個室優勢の現代でも、人は折々夜風に吹かれ、ビールに喉を鳴らしたいときがある。ビジネスマンが仕事帰りに集うことが多いため、駅前のビルやデパートの屋上など、交通に便利な場所が多いが、都心を離れた場所で人気のビアガーデンもある。高尾山のケーブルカー降り口にある高尾山ビアマウントは標高500メートル。夜空には星が輝き、地上の夜景も見渡せる。掲句は「天の扉」としたことで、特別な空間が生まれ、また、満天の夜空からこぼれ落ちる星を掲げるジョッキで受けるような豪快な美しさを伴った。〈百草に百種のこゑ秋澄めり〉〈秋の七草夕日を束ねてゐたりけり〉『ロザリオ祭』(2014)所収。(土肥あき子)


August 2682014

 草の穂や膝をくづせば舟揺れて

                           藤田直子

と舟は、推進に動力を利用する大型のものが船、手で漕ぐごくちいさなものを舟、とその文字により区別される。現在でも川や湖など短距離を移動するための手段として渡し船が活躍する場所もあるが、舟の腹にぶつかる波も、船頭の立てる櫓のきしむ音も、なつかしいというより、ひっくり返りはしないかと落ち着かないものである。小刻みな揺れに身を任せることにもどうにか慣れ、ようやく緊張の姿勢を解いたそのとき、舟が大きく傾く。こんな時、ひとはきっと一番近い陸を見る。あそこまで泳げるか、などという現実的な考えなど毛頭なく、地上を恋う体がそうさせるのだ。すがる思いで岸辺を見れば、草の穂が秋の日差しのなかきらきらと輝いている。風に揺れるのは草の穂なのか、自分自身なのか……。水のうえに置かれている我が身がいっそう頼りなく思え、頬をかすめる秋の風が心細さをつのらせる。〈一舟に立ちてひとりの白露かな〉〈汁盛神社飯盛神社豊の秋〉『麗日』(2014)所収。(土肥あき子)


September 0292014

 森密に満月入れるほどの隙

                           坂口匡夫

の語源が「盛り」であるように、木が密集している場所を意味する。夜とはいわず、昼でさえ暗いような場所にあって、満月が光りをこぼす。闇のなかであるからこそ、わずかな光りがひときわ明るく見えるのだが、そのあまりの美しさに、まるで重なり合う木々がおのずから月光を通すために隙間を作っているように感じられるのだ。来週が満月となる今宵はちょうど半分の月。森の木々があっちに詰めたり、こっちに身を寄せたりして、満月の居場所を作っているところだろう。〈月の歌唄ひつつゆく子に無月〉〈鰯雲忘るる刻がきて忘る〉『沖舟』(1975)所収。(土肥あき子)


September 0992014

 良夜かな鱏の親子の舞ひ衣

                           鍵和田秞子

日が十五夜だったが、満月は今日。正確にいうと満月は午前10時38分の月なので、昨夜も、今夜もほとんど満月という状態ではある。鱏はひらべったい菱形の体に長い尾を持ち、波打つように泳ぐ。そのなかでも最大のオニイトマキエイは、ダイバーたちの憧れの生きものである。マンタとも呼ばれるオニイトマキエイは、青い海をひらひらとはばたくように泳ぐ。マンタは一列に連なって移動することもあり、それはまるで海中の渡り鳥のような美しさである。大きな月が海を照らせば、竜宮城までその明るい光りが届いていることだろう。ヒラメより断然迫力のある鱏の舞いが披露されているかもしれない。〈記憶から記憶へ紅葉始りぬ〉〈かなしみは眠りを誘ふ黒葡萄〉『濤無限』(2014)所収。(土肥あき子)


September 1692014

 嘘も厭さよならも厭ひぐらしも

                           坊城俊樹

いぶん長く居座った夏の景色もどんどん終わっていく。盛んなものが衰えに向かう時間は、いつでも切ない思いにとらわれる。他愛ない嘘も、小さなさよならも、人生には幾度となく繰り返されるものだ。ひぐらしのかぼそい鳴き声が耳に残る頃になると、どこか遠くに追いやっていたはずのなにかが心をノックする。厭の文字には、嫌と同意の他に「かばう、大事にする、いたわる」などの意味も併せ持つ。嘘が、さよならが、ひぐらしが、小さなノックは徐々に大きな音となって作者の心を占めていく。〈みみず鳴く夜は曉へすこしづつ〉〈空ばかり見てゐる虚子の忌なりけり〉『坊城俊樹句集』(2014)所収。(土肥あき子)


September 2392014

 九月の風さわわセブンスターの木

                           酒井弘司

海道美瑛町の観光スポットには、タバコのセブンスターのパッケージに採用されたことから「セブンスターの木」と呼ばれる柏の木がある。セブンスターといえば、シルバーの星小紋のなかに金色の星が7の数字をかたどったパッケージが思い浮かぶが、JTが専売公社だった1976年、特別包装タバコとして地域限定で販売されていたものがあったらしい。しかし、紹介する美瑛町にも、販売元のJTにも、箱の実物もなければ写真もなく、インターネットのどこを探してもセブンスターの木がプリントされているパッケージを見つけることはできなかった。38年という歳月は商品をすっかり過去のものとしてしまったが、大樹はそのままの姿を保ち続ける。じゃがいも畑が続く丘陵の頂上付近に枝を広げた美しい木は、今までも、これからも変わらず、豊饒のときが来たことを知らせるように、風が通り抜けるたび、さわわさわわと葉を鳴らす。ところで、同集には〈裏妙義みどりを吸って一夜寝る〉が収められており、てっきり「みどり」という名のたばこを一服したのかと思ってしまったが、すぐに「わかば」と勘違いしていることと、みどりは季題であったと気づき赤面した。それにしても「わかば」や「いこい」などの名称は、タバコが息抜きや気分転換などを象徴していた名であったと思い、時代の変遷をあらためて思うのだった。『谷戸抄』(2014)所収。(土肥あき子)


September 3092014

 間取図のコピーのコピー小鳥来る

                           岡田由季

越先の部屋の間取りを見ながら、新しい生活をあれこれと想像するのは楽しいものだ。しかし、作者の手元にあるのはコピーをコピーしたらしきもの。その部分的にかすれた線や、読みにくい書き込みは、真新しい生活にふさわしくない。しかし、作者は大空を繰り返し渡ってくる小鳥の姿を取り合わせることで、そこに繰り返された時間を愛おしむ気持ちを込めた。引越しによって、なにもかもすべてがリセットされるわけではない現実もじゅうぶん理解しつつ、それでもなお新しい明日に希望を抱く作者の姿が現れる。図面といえば、以前は図面コピーの多くは青焼きだった時代があった。青空を広げたような紙のしっとりと湿り気をおびた感触と、現像液のすっぱい匂いをなつかしく思い出している。〈箒木の好きな大きさまで育つ〉〈クリスマスケーキの上が混雑す〉『犬の眉』(2014)所収。(土肥あき子)


October 07102014

 竿の手の不意に暮れたる子持鮎

                           田草川㓛子

月下旬から10月にかけて、鮎は産卵のため川を下る。この時期の卵を抱いた鮎は、みずみずしい夏の鮎とは違った楽しみがある。夢中になっている時間は、思っているよりずっと早く過ぎている。ふと我に返ると竿を握る手元にも、川面にも暗闇が広がって、一瞬キツネにつままれた心地となる。時計を確かめてみても、確かにその暗さに見合った時刻であるが、それでもまだ「そんなはずはない」といういぶかしく思う気持ちが「不意に」に込められる。つるべ落としの秋の日の実感とともに、魚籠に入っている釣果が子持鮎だという哀れも感じられ、釣り人は荒々しく川音に包まれる。〈新米を真水のごとく掬ひけり〉〈稲の束抱へて胸の濡れにけり〉『弓弦』(2014)所収。(土肥あき子)


October 14102014

 小鳥来るひとさじからの離乳食

                           鶴岡加苗

間暇かけて作った離乳食がまったく無駄になってしまったという嘆きは多い。ミルクだけを飲んできた小さな口には、味覚以前にスプーンの材質まで気にさわるものらしい。いかに気に入らなくても、言葉にできぬもどかしさに身をよじる赤ちゃんサイドと、せっかくの力作を無駄にしたくない母心が入り乱れ、ときには絶望に声を荒げてしまうこともあるだろう。しかし、その小さな口がひとさじを受け入れてくれてたとき、母の苦労はむくわれる。今日のひと口が明日のふた口に続くかどうかは赤ちゃん次第。乳児から幼児へと変身する時間はゆっくりと流れる。小さな翼を揃えて渡ってくる鳥たちを思いながら、母は子へひとさじずつスプーンを運ぶ。母と子の蜜月の日々がおだやかに過ぎてゆく。〈さへづりや寝かせて量る赤ん坊〉〈子育ての一日長し天の川〉『青鳥』(2014)所収。(土肥あき子)


October 21102014

 月の夜のワインボトルの底に山

                           樅山木綿太

がワインを手にしたのは古代メソポタミア文明までさかのぼる。醸造は陶器や革袋の時代を経て、木製の樽が登場し、コルク栓の誕生とともにワインボトルが普及した。瓶底のデザインは、長い歴史のなかで熟成中に溶けきらなくなったタンニンや色素の成分などの澱(おり)を沈殿させ、グラスに注ぐ際に舞い上がりにくくするために考案されたものだ。便宜上のかたちとは分かっても、ワインの底にひとつの山を発見したことによって、それはまるで美酒の神が宿る祠のようにも見えてくる。ワインの海のなかにそびえる山は、月に照らされ、しずかに時を待っている。〈竜胆に成層圏の色やどる〉〈父と子の落葉けちらす遊びかな〉『宙空』(2014)所収。(土肥あき子)


October 28102014

 いつよりか箪笥のずれて穴惑

                           柿本多映

位置に置かれている箪笥。部屋の大物は一度場所を定めたら、よほどのことがない限り動かすことはない。いつもの見慣れた部屋の配置である。とはいえ、あるときふとあきらかに箪笥が元の位置よりずれていることに気づく。わずかに、しかし確固たるずれは、絨毯の凹みか、あるいは畳の焼け具合がくっきりと「これだけずれました」と主張しているようで妙に不気味に思われる。確かにここにあったはずのものがこつぜんと消失したりすることなど、日常によくあるといえばあることながらホラーといえばホラーである。穴に入り損なってうろうろしている蛇のように、家具たちも収まる場所が違うとよなよな身をよじらせていたのかもしれない。知らず知らずのうちに狂っていくものに、薄気味悪さとともに、奇妙な共感も得ているように思われる。〈ゆくゆくは凭れてみたし霜柱〉〈たましひに尻尾やひれや蟇眠る〉『粛祭』(2004)所収。(土肥あき子)


November 04112014

 まだ駆くる脚の構へに猪吊らる

                           谷岡健彦

りで捕らえた獣を運ぶため、前脚、後脚をそれぞれ縛り、運搬用の棒を渡す。まだほのかに温みの残っている猪が、人間の足並みに合わせてゆらゆらと揺れる。大きな獲物を担いでいくのは大層難儀だが、山中のけわしい道では人力に頼るほかはない。四肢を持つ獣が運ばれるためにもっとも適したかたちが、天地は逆でこそあれ、野を駆ける姿と同じであることが、一層哀れを誘う。猪へと送る作者の視線は狩る側のものではないが、また過剰な憐憫を溢れさせた傍観者のものでもない。一撃さえ避けられれば、昨日と同じ今日が続いていたはずの猪を前に、それはまるで命を頂戴するための儀式でもあるかのようにも見えてくる。〈風船を身体浮くまで買へと泣く〉〈輪唱の焚きつけてゆくキャンプの火〉〈猫に店任せつきりの暦売〉『若書き』(2014)所収。(土肥あき子)


November 11112014

 下の子を抱き髪置の子を連れて

                           山内裕子

置(かみおき)の儀は、3歳となった男女児が11月15日に行う儀式。七五三の三に組み入れている地域もあるが、元来は別の行事である。儀式は頭に綿や白糸を白髪として乗せ、長寿を祈願する。7歳までに亡くなる子が多かった時代には、こまめに節目を用意することで、成長を喜び、神への感謝を捧げていた。医療が発達した現代でも、子の成長を願う親心から昔ながらの儀式を行う。しかし、幼い頃の兄弟、姉妹はたとえ二歳ほどの開きがあろうと、聞き分けのない赤ん坊が二人揃っているようなものだ。晴れ着の幼児と、すやすやと眠る赤ん坊、そして若い父母も美しく装う景色にたどりつくまでの、水面下の奮闘は想像にあまりある。掲句には並んで〈行き合はす人に祝はれ七五三〉が置かれる。はれの日に向けられるあたたかな視線もまた、どの時代にあっても健やかであれとの願いが込められる。『まだどこか』(2014)所収。(土肥あき子)


November 18112014

 返り咲くたんぽぽに茎なかりけり

                           福神規子

り花とは本来咲くべき季節ではない時期に、陽気の具合で咲いてしまう花。小春日のあたたかな日だまりで、たんぽぽの黄色が鮮やかに目に飛び込むことがある。たんぽぽの生育環境はかなり過酷でも、たとえばアスファルトのわずかな隙間でも育つことが可能だ。とかく生命力の強い植物は嫌われる傾向にあるが、その姿かたちによって誰にも愛される花である。葉を地面にぴったりと放射状に広げることで、一枚一枚重ならないようにして日照面積を多く取るような工夫がなされ、茎の長短も実はエネルギー効率をしたたかに考えたものだ。しかし、たんぽぽは可憐な風情をくずすことなく、寒風のなかでわずかな日向にしがみついているようにも見え、ことさらいじらしく映る。思わず膝を寄せ「大丈夫?」と問いかけてしまうほどに。〈鍵穴は古墳のかたち梅雨深し〉〈ままごとにかあさんがゐて草の花〉〈さりながら人は旅人山法師〉『人は旅人』(2014)所収。(土肥あき子)


November 25112014

 枯野には枯野の音の雨が降る

                           松川洋酔

れることの定義を広辞苑ではどう表現しているのだろうとなにげなく開いてみると、「水気がなくなって機能が弱り死ぬ意。死んでひからびる。若さ、豊かさ、うるおいなどがなくなる。」など、なんだか身につまされて、調べたことを後悔する。枯れ果てた草木に追い打ちをかけるような雨を思い、気分が沈む。しかし、気を取り直して「枯れる」の項を読み続けると、最後の最後にパンドラの箱に希望が取り残されていたように「長い経験の結果派手さが消え、かえって深い味を持つようになる」とあった。枯野から放たれる雨音は、思いのほか軽やかで、明るい音色に包まれていたのだ。そして、街には街の音、海には海の音の雨が降るのだと静かに気づかされる。〈裸火の潤みし雨の酉の市〉〈千年の泉のつくる水ゑくぼ〉〈湯たんぽの火傷の痕も昭和かな〉『水ゑくぼ』(2014)所収。(土肥あき子)


December 02122014

 花八手むかし日暮れに糸電話

                           七田谷まりうす

コップふたつと数メートルの糸さえあれば糸電話はできあがる。コップをつなぐ糸をぴんと張ることがもっとも大切な約束ごとだが、たったそれだけのことで声が運ばれるとはなんだか不思議な気持ちになる。「じゃあ、始めるよ」と、糸を張るためわざわざ遠くに離れ、話し終わればコップを手渡すためにまた顔を合わせるのだから、結局聞こえたか、聞こえないか、程度の会話が続く。それでも糸を伝わる声は、どこか秘密めいていて、他愛ない言葉のひとつひとつが幼い心を刺激した。全神経を耳に集中して、あの階段、この路地と試してみれば、冬の日はたちまち暮れてしまう。路地や庭先に生えていた無愛想なヤツデの花が、まるで通信基地のように薄暗がりにぬっと突き出ていた。〈折鶴の折り方忘れ雪の暮〉〈枯葦に分け入りて日の匂ひけり〉『通奏低音』(2014)所収。(土肥あき子)


December 09122014

 野良猫に軒借られゐて漱石忌

                           尾池和子

際には猫より犬派だったようだが、漱石といえば猫、そして夏目家の墓がある雑司が谷界隈には野良猫が実に多い。野良猫の寿命は4〜5年といわれ、冬を越せるかどうかが命の分かれ目ともいわれる。先日、冷たい雨を軒先でしのいでいる猫のシルエットに気づいた。耳先がV字型にカットされている避妊去勢済みの猫である。縁側で昼寝をするほどの顔なじみではあるが、一定距離を保つことは決めているらしく、近づくと跳んで逃げる。ああ、またあの猫だな、と思いつつ、野良猫に名前を付けることはなんとなくはばかれ、白茶と色合いで呼んだりしている。そういえば『吾輩は猫である』の一章の最後に吾輩は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯無名の猫で終るつもりだ」とつぶやいていた。軒先で雨宿りする猫はどう思っているのだろう。漱石忌の今日もやってきたら、きっと名前を付けてあげようかと思う。「大きなお世話」と言われるだろうか。〈ふくろふに昼の挨拶してしまふ〉〈双六に地獄ありけり落ちにけり〉『ふくろふに』(2014)所収。(土肥あき子)


December 16122014

 冬帽子試してどれも似合はざる

                           井出野浩貴

ね着するより帽子をかぶるほうがあたたかいと知ってから、冬場に帽子は欠かせないものになった。しかし、ニットや頭にフィットする素材が多い冬帽子は、輪郭と一体化するため、顔のかたちが強調される。掲句では、ショップであれこれ試してみてもどうもしっくりしないし、店員さんの言葉も素直も信用できなくなってくる。それでもいくつも被ってみて、いらないと出て行くのも悪い。さらに、店内の照明のなかで汗ばんた頭に被るのさえつらくなってきている状態と推察する。似合うか、似合わないかより、実は見慣れていないことにも原因はあるようだ。つば付きのものだと意外と違和感がないというので、初挑戦の方はぜひお試しあれ。〈不合格しづかに踵かへしけり〉〈卒業す翼持たざる者として〉『驢馬つれて』(2014)所収。(土肥あき子)


December 23122014

 どろどろのマグマの上のかたき冬

                           水岩 瞳

グマといえば、噴火で流れ出た溶岩を思うが、本来は地下の深部にあるもの。あらためて地球の内部構造の解説を見てみると、今から約46億年前に誕生して以来、地球はマグマの海に覆われ、そののちゆっくりと表面が固まったと説明されている。地球の直径は1万km以上で、人間が掘ったもっとも深い穴は10kmほどというのだから、地球の内部のほとんどを人間はまだ見ていないことになる。宇宙も神秘だが、地中も神秘に満ちている。地球の薄皮一枚の地表の上で、冬が来たと右往左往する人間がことさらが愛おしく思えるのである。〈この道の草に生まれて草の花〉〈円かなる月の単純愛すかな〉『薔薇模様』(2014)所収。(土肥あき子)


December 30122014

 生きてゆくあかしの注連は強く縒る

                           小原啄葉

連縄は神聖な場所と下界を区別するために張られる縄。新年に玄関に飾る注連飾りには、悪い気が入らないよう、また年神様をお迎えする準備が整ったという意味を持つ。現在では手作りすることはほとんどなくなったが、以前は米作りののちの藁仕事の締めくくりに注連縄作りがあった。一本一本丁寧に選別された藁は、手のひらで強く縒(よ)り合わせながら、縄となる。体温をじかに伝えながら、来年の無事を祈り込むように、注連縄が綯(な)われていく。『無辜の民』(2014)所収。(土肥あき子)




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