リ檀句

July 0272014

 朝ぐもり窓より見れば梨の花

                           高村光太郎

ぐもりは夏の季語。朝のうち曇っていても、曇っている蒸気が刻々と晴れてきて暑い夏日となる。今の時季、よく経験することである。そんなところから「旱の朝曇」とも言われる。また、梨は四月頃に白い可憐な花をつけるから、「梨の花」そのものは春の季語。作者は窓から白い梨の花を眺めながら、「今日も暑くなるのかなあ」と覚悟しているのかもしれない。梨の花の花言葉は「博愛」「愛情」である。どこか光太郎にふさわしいようにも思われる。梨には、弥生時代以来の「日本(和)梨」があり、ほかに「中国梨」「西洋梨」があるという。また「赤梨」と「青梨」に大別される。「梨の花」は春で、「梨の実」は秋である。梨は秋には桃などとともに欠かせないくだものである。掲句は月並句といっていいだろうが、光太郎の句は珍しいのでここに取りあげた。中村汀女に「朝曇港日あたるひとところ」がある。平井照敏編『新歳時記・夏』(1996)所収。(八木忠栄)


July 0972014

 羅や母に秘めごとひとつあり

                           矢野誠一

にだって秘めごとの一つや二つあるだろう。あっても不思議はない。家庭を仕切って来たお母さんにだって、長い年月のうちには秘めごとがあっても、むしろ当然のことかもしれない。しかも厚い着物ではなく、羅(うすもの)を着た母である。羅をすかして見えそうで見えない秘めごとは、子にとって気になって仕方があるまい。この場合、若い母だと生臭いことになるけれど、そうではなくて長年月を生きて来た母であろう。そのほうが「秘めごと」の意味がいっそう深くなってくる。母には「秘めごと」がたくさんあるわけではなく、「ひとつ」と詠んだところに惹かれる。評論家・矢野誠一は東京やなぎ句会に属し、俳号は徳三郎。昨年七月の例会で〈天〉を二つ獲得し、ダントツの高点を稼いだ句。同じ席で「麦めしや父の戦記を読みかへす」も〈天〉を一つ獲得した。披講後に、徳三郎は「父と母の悪事で句が出来ました」と言っている。同じ「羅」で〈天〉を一つ獲得した柳家小三治の句「羅や真砂女のあとに真砂女なし」も真砂女の名句「羅や人悲します恋をして」を踏まえて、みごと。『友ありてこそ、五・七・五』(2013)所載。(八木忠栄)


July 1672014

 浅草や買ひしばかりの夏帽子

                           川口松太郎

の日本人は、年間を通じて帽子をあまりかぶらない人種と言える。数年前に夏のシンガポールへ行った時も、日本以上に暑い日差しのなか帽子をかぶっている人の姿が少ないことに、どうして?と驚いた。(日本人に限ったことことではないか、と妙に納得した。)掲出句は浅草で買った夏帽子をかぶって、浅草を歩いているのではあるまい。そうではなくて、どこかの町で買ったばかりの夏帽子をかぶって、暑い日盛りの浅草へ遊びにでも出かけたのであろう。去年の夏もかぶっていた帽子ではなく、ことし「買ひしばかり」の夏帽子だから、張り切って意気揚々と浅草のにぎわいのなかへ出かけた。祭りなのかもしれない。帽子にも近年はいろいろとある。サハリ帽、パナマ帽、中折れ帽、アルペン帽、バンダナ帽、野球帽、麦わら帽……松太郎の時代、しかも浅草だから、高級な麦わら帽かパナマ帽なのかもしれない。いずれにせよ、新調した夏帽子をかぶって盛り場へ出かける時の高揚感は、時代を超えて格別である。松太郎には他に「秋晴の空目にしみる昼の酒」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


July 2372014

 幽霊の形になっていく花火

                           高遠彩子

よいよ日本中、花火花火の季節である。花火のあがらない夏祭りは祭りではないのか、といったあんばいの今日このごろである。花火も近頃は色彩・かたち・音ともに開発されてきて、夜空は従来になく多様に彩られ、見物人を楽しませてくれるようになってきた。しかもコンピューター操作が普及しているから、インターバルが短く、途中で用足しするヒマもままならないほどだ。「幽霊の形」ということは、開いたあと尾を引くように長々としだれる、あの古典的花火の様子だろう。♪空いっぱいに広がった/しだれ柳が広がったーーという童謡が想起される。しかも「なっていく」という表現で、きらめきながら鮮やかにしだれていく経過が、そこに詠みこまれていることも見逃せない。この場合の「幽霊」は少しも陰気ではないし、「幽霊」と「花火」という言葉の取り合わせも意識されているようだ。彩子はユニークな声をもつ若いシンガーとして活躍しているが、たいへんな蕎麦通でもある。『蕎麦こい日記』という著書があるほどで、時間を惜しんで今日も明日も各地の蕎麦屋の暖簾をくぐっている。他に「生くるのも死ぬるも同じ墓参り」がある。「かいぶつ句会」所属。『全季俳句歳時記』(2013)所載。(八木忠栄)


July 3072014

 にはたづみ夕焼雲を捉へたり

                           鈴木 漠

焼雲は夏に限ったものではない。けれども、殊に夏のそれはダイナミックでみごとに感じられるところから、「夕焼」「大夕焼」とともに夏の季語とされる。「にはたづみ(潦)」は俳句でよく詠われる。降った雨が地上にたまって流れる、その水のことで、古くは「庭只海」とされていたというから、情趣のある日本語である。あんなさりげない流れ水を「……海」ととらえたところに、日本人ならではの感性が感じられる。夕焼雲をとらえた「潦」を詠んだ掲出句は、繊細でありながら天地の景をとらえた大きな句である。夏の雨あがりの気分には格別なものがある。両者はそれぞれ、天空と地上にあって別のものである。それを作者はみごと有機的に繋いでみせた。作者が中心になって連句をつづけている「海市の会」があって、その座で巻いた歌仙の一つ「潦の巻」(2010年8月首尾)の発句である。ちなみにこの発句につづく脇句は「タヲルをするり逃げる裸子」(士郎)と受けている。漠は他の歌仙(塚本邦雄追悼)の発句の一つを「初夏や僅(はつ)かも疾(と)くに折見草(おりみぐさ)」としている。ここには「つかもとくにお」が詠みこまれている。連句集『轣轆帖』(2011)所収。(八木忠栄)


August 0682014

 麦飯の熱(ねつ)さめがたき大暑かな

                           宮澤賢治

ろろめしには麦飯がふさわしい。麦とろ。近年では、麦飯はヘルシーなレシピとして好まれるケースが多い。賢治の場合はその時代からしてヘルシーどころか、やむを得ず米に麦を混ぜた麦飯であろう。凶作の年は、稗や粟も米に混ぜたし、大根めしもあった。凶作の東北では珍しいことではなかった。この国では産米が余って、近年は減反政策がしばらく実施されて来たのだが、今になってそれを見直すのだという。この国の農業政策の無為無策ぶりは相変わらずである。さて、「大暑」は本来7月22日頃の酷暑をさす二十四節気の一つだが、このところの連日の暑さにあきれて、今回は少々遅れて賢治句に登場ねがった。暑いときだから炊きたての麦飯ではたまらない。冷まして漬物でさっさと食べたいのだろうが、団扇で暑さに耐えながらしばし待っているといった図か。賢治が実際に遭遇した光景かもしれない。実感がこめられている。当方もふところが淋しいときには、麦飯によるとろろめし。それに佃煮か焼いた丸干をかじる素朴な麦とろは、安値ながらも妙に心が落ち着いたものである。賢治の俳句は少ないけれど、「目刺焼く宿りや雨の花冷に」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1382014

 茗荷食み亡き友の癖思い出す

                           辻井 喬

マのまま刻んで薬味によし、味噌汁に入れて茗荷汁よし、天ぷらでよし、酢漬けでよしーー茗荷は重宝でうれしい野趣あふれた山菜である。屋敷のあちこちや山野へ出かけ、時季になると袋一杯に茗荷を採ってあるくことが、子どものころから私は好きだった。あの茶色なつややかさ、ぽってりとした茎が薄黄色の花をつける。子どもの頃うちではたくさん採れると、蒸かして芥子醤油でたんまり食べたり、味噌漬けにしたりした。晩夏に出る秋茗荷(花茗荷)は、花が出はじめる前が食べごろ。「その花、開かざるのとき、採りて食す」(『滑稽雑談』)と言われる通りである。あの独特の風味は何とも言えずうれしい。春にのびる茗荷竹もちがったおいしさがあった。「人はなくて七癖、あって四十八癖」と言われるが、この句の場合「亡き友」には、いったいどんな癖があったのだろうか? その友はおそらく茗荷が好きだったにちがいない。喬には『故なくかなし』『命あまさず』など、俳句小説もあった。自ら俳句も少々たしなんで、平井照敏主宰の「山の上句会」に忙しい合間をぬって参加したりもした。喬は惜しまれつつ昨年「亡き」人となってしまった。彼岸で時折、五七五の指を折ったりしておいでだろうか。日野草城の句に「人知れぬ花いとなめる茗荷かな」がある。「翡翠」389号(2014)所載。(八木忠栄)


August 2082014

 フード付きマント/影の色持ち/オアシスの暑さ

                           ジム・ケイシャン

句は「a burnoose takes on / the color of the shade / oasis heat」(Jim Kacian/邦訳:夏石番矢)。海水浴場の砂浜にかぎらず、暑い日差しのなかでは、フード付きマントのフードをすっぽりかぶっていないと、炎暑はたまったものではないし、健康管理上ヤバい。「影の色」とはマントについた「フード」による日影を意味していると思われる。単なる「影」ではなく、「影の色」と表現したところにポエジーが感じられる。フードで暑さはいくぶん避けられるとしても、マント全体は暑い。フードを「オアシス」ととらえても暑さは避け切れない。でも、確かに多少なりともホッとできるような、「オアシス」という語感がもつ救いが若干なりともあるだろう。句の舞台は実際の砂漠ではなくて、暑い日差しのなかでの「フード付きマント」であり、それを「オアシス」と喩えたものと私は解釈したい。ケイシャンはアメリカ人で、「英語俳句を創作し、広めることを目的とした団体を創立し、ディレクターを務める」「多くの俳句の本を出版する」と略歴紹介にあるとおり、英語俳句の実力者である。「吟遊」63号(2014)所載。(八木忠栄)


August 2782014

 鎌いたち稲妻だけを借着して

                           瀧口修造

読して難解な句である。だいいち「鎌いたち(鼬)」は今や馴染みがない言葉である。鼬の種類ではない。辞書では「物に触れても打ちつけてもいないのに、切傷のできる現象」「越後七不思議の一つ」などと簡単に説明されている。小学校時代に同級生が遊んでいて何かのはずみで、脚の肉がパックリ割れたことがあった。初めて「かまいたち」というものを知った。その後、私もじつは小学生時代に肘に鎌状の傷を負い、「鎌鼬」の跡が残っている。「鎌鼬」の医学的現象についての解説は今は略すけれど、「切傷」などという生易しい現象ではなく深傷だが、不思議とたいした出血もない。井上靖に「カマイタチ」という名詩がある。修造の「私記土方巽」(「新劇」連載)のなかに初出する句だという。細江英公の写真集『鎌鼬』は、土方巽をモデルにした傑作であった。それが修造の頭にあったはずである。修造が初めて舞踏家土方の訪問を受けたときのエピソードを、両人と親しかった馬場駿吉が掲出句を引用してこう書いている。「突然の激しい雷雨に見舞われた土方は玄関へ入るなりずぶ濡れの着物を脱ぎ、裸身にバスタオルを巻きつけなければならなくなったと言う。その咄嗟の出来事を鮮烈に記憶に刻んだのがこの一句なのだろう。」土方との出会いをいかにも修造らしくとらえた一句である。土方はじっさい裸身を稲妻で包みかねない舞踏家だった。「洪水」14号(2014)所載。(八木忠栄)


September 0392014

 内股(うちもも)に西瓜のたねのニヒリズム

                           武田 肇

句を含む句集『同異論』(2014)は、作者がイタリア、スペイン、ギリシアなどを訪れた約二年間に書かれた俳句を収めた、と「あとがき」に記されている。したがって、その海外旅行中に得られた句である可能性もあるが、そうと限ったものでもあるまい。西瓜は秋の季語だけれども、まだ暑い季節だから内股を露出している誰か、その太い内股に西瓜の黒いタネが付着しているのを発見したのであろう。濃いエロチシズムを放っている。国内であるか海外であるかはともかくとして、その「誰か」が女性であるか男性であるかによって、意味合いも鑑賞も異なったものになるだろう。「ニヒリズム」という言葉の響きからして、男性の太ももに付着したタネを、男性が発見しているのではあるまいか、と私は解釈してみたい。でも、白くて柔らかい「内股に…たね」なら女性がふさわしいだろうし、むずかしい。作者はそのあたりを読者に任せ、敢えて限定していないフシもある。おもしろい。「西瓜のたねのニヒリズム」という表現は大胆であり、したたかである。同じ句集中に「ニヒリズム咲かぬ櫻と來ぬ人と」「ニヒリズム春の眞裏に花と人」がある。著者七冊目の句集にあたる。(八木忠栄)


September 1092014

 どの家もまだ起きてゐる良夜かな

                           宮田重雄

がとても素晴らしく良い夜だから、良夜。おもに十五夜をさす。今年九月の満月は暦の上では昨九日だった。良い月が出ている夜は、すぐに寝てしまうのがどこかしらもったいない気がする。だから夜遅くまで人は思い思いに起きている。集合住宅ではなかなかその実感はわかない。涼しくなった時季に縁側や庭で月の光のもと、何やかやとぐずぐずと時間を過ごしていたいのは、一般的に人間の自然な気持ちかもしれない。「徒然草」に「八月十五日、九月十三日は、婁宿なり。この宿、清明なるゆゑに、月を翫ぶに良夜とす。」とある。「月を翫(もてあそ)ぶ」などという味わい深い言葉は、もう私たちの日常からは遠い言葉になってしまった。宮田重雄を知っている人は今や少なくなっただろう。画家であり医者さんだった。むかしNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラー回答者だった、という記憶が残っている。福田蓼汀の句に「生涯にかかる良夜の幾度か」がある。なるほど実感であろう。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


September 1792014

 地球も命も軽しちんちろりん

                           正津 勉

いころ読んだ開高健の『太った』という小説のなかに、「地球が重い重いと言いながら、太ったやないか」と相手を咎めるセリフがあった。もう何十年も忘れることができないでいる言葉である。今も昔も「地球」や「命」は、何よりも貴重だったこと、言うも愚かしい。それらが年々歳々ふわりふわりと軽いものになり、国の内外を問わず危うい状況を呈しつつある。とりわけ近年はどうだい! そのことをいちいち今述べるまでもあるまい。これでは「地球」も「命」も、いつまで安穏としていられるか知れたものではない。草むらでしきりに鳴いているちんちろりん(松虫)に、地球も人も呆れられ嘲笑されても仕方がない。「……軽しちんちろりん」がせつなく身にこたえる。俳味たっぷり風流になど、秋の虫を詠んでなどいられないということ。「ちんちろりん」は『和漢三才図絵』には「鳴く声知呂林古呂林」とある。勉の「虫の秋」五句のうちの一句。他に「がちやがちや我は地球滅亡狂」という句が隣にならぶ。勉らしい詠みっぷり。「榛名団」11号(2014)所載。(八木忠栄)


September 2492014

 京に二日また鎌倉の秋憶ふ

                           夏目漱石

石の俳句については、ここで改めて云々する必要はあるまい。掲句は漱石の未発表句として、「朝日新聞」(2014.8.13)に大きくとりあげられていたもの。記事によると、明治30年8月23日付で正岡子規に送った書簡に付された九句のうち、掲句を含む二句が未発表だという。当時、熊本で先生をしていた漱石が帰京して、根岸の子規庵での句会に参加した。この書簡は翌日子規に届けられたもの。そのころ妻鏡子は体調を崩し、鎌倉の別荘で療養していた。前書には「愚妻病気 心元なき故本日又鎌倉に赴く」とある。東京に二日滞在して句会もさることながら、秋の鎌倉で療養している妻を案じているのであろう。療養ゆえ、秋の「鎌倉」がきいているし、妻を思う漱石の心がしのばれる。未発表のもう一句は「禅寺や只秋立つと聞くからに」。こちらは前書に「円覚寺にて」とある。同じ年、妻を残して熊本へ行く際、漱石が詠んだ句「月へ行く漱石妻を忘れたり」は、句集に収められている。(八木忠栄)


October 01102014

 里芋の煮つころがしは箸で刺す

                           大崎紀夫

たちがふだん「里芋」と呼んでいる芋にも種類があって、ツルノコイモとかハタケイモをはじめ、品種が多いようだ。山形県ではじまった、この時季の「芋煮会」なるものはどこでも行われるようになってきた。里芋にはいろいろなレシピがあるわけだが、素朴な「煮っころがし」が最もポピュラーで、好まれていると言っていい。丸くてぬめりがあるから、お行儀よく箸でつまむよりは、手っとり早く箸で刺したほうが確実にとらえて口に運べる。掲出句はお行儀よく構えることをせず、そのことを詠んだもの。「本膳」という落語がある。庄屋に招かれた村人たちが、あらかじめ手習いの師匠から「本膳での食べ方は私の真似をするように」と教わって出かける。席で師匠が里芋の煮っころがしをうっかりとりそこなって転がすと、村人がいっせいに箸で里芋をつついてそれを転がすという、にぎやかなお笑いの場面がある。ついでに、落語家の間では「ライスカレーは匙で食う」という、当たり前すぎて笑える言い方がある。釣師でもある紀夫には「ぎぎ釣るやぎぎぎぐぎぐぎぐうと泣く」という妙句がある。『俵ぐみ』(2014)所収。(八木忠栄)


October 08102014

 屋根草も実となる秋となりにけり

                           巌谷小波

ほど草深い田舎へ行けば、あるいはこうした風景をまだ見ることができるかもしれないけれど、今や昔懐かしい風景になったと言っていい。古びた藁屋根(屑屋根とも呼ばれた)に何かの草がはえて、元気よく成長して風に吹かれているのを見たことがある。(風流などと言う勿れ。電子辞書を引いても、「藁屋根」「屑屋根」という言葉は出てこない)秋になればさらに実をつけるものもある。昔の田舎では珍しくなかった風景を、ユーモラスにとらえている。そういう家では、屋根にはえる草などにかまっていられなかったのだろう。ユーモラスでのんびりとした時間が、屋根草にも実をつけていたのだ。10年ほど前に韓国を旅してある農村を通りかかった際、藁屋根に大きなカボチャがどっしりと、いい色合いで実っていたのを目撃して、思わずワァーと声をあげた。「……なる……なりにけり……」のリズムが快い。小波の句には「桜さく日本に生まれ男かな」があり、芝増上寺の句碑に刻まれているという。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 15102014

 黄金の木の実落つる坂の宿

                           西脇順三郎

の西脇順三郎も数は少ないけれど、萩原朔太郎、室生犀星らと俳句を作った時期があった。「黄金の木の実」とはドングリかギンナンの実のことだろうか。「黄金」という表現はいかにも西脇的だ。「超自然主義」の西脇も、この句では自然主義的な耳と感性を発揮している。しかし木の実が落ちる音に、常人には及びもつかない“音”をおそらく聞いていたにちがいない。『旅人かへらず』の詩人は、ある秋の日の旅宿での憶い出を詠んでいるのかもしれない。しかも「坂」だから、木の実は落ちてころころ転がったのだろう。坂道の様子は? そこまで想像力をかきたててくれる。新倉俊一はこの句を引用して、次のように記述している。「昭和十年末から彼は百田(註:宗治)に誘われて、大森の俳人・西村月杖の主宰する月例句会に、萩原や室生らと共に参加して、月交代で選者をつとめた」。選者をつとめたというから並ではない。翌年、彼らの「句帖」が創刊された。西脇には、掲出句の他に「木の実とぶ我がふるさとの夕べかな」がある。ふるさと小千谷を想う素直な俳句だ。今年は生誕120年にあたる。新倉俊一『評伝 西脇順三郎』(2004)所載。(八木忠栄)


October 22102014

 河添の夜寒かなしき洲崎かな

                           芝木好子

崎は現在の江東区東陽町にあたる。昭和33年3月31日まで、吉原とならんで赤線の灯がともっていた。それを描いた川島雄三の傑作映画「洲崎パラダイス赤信号」(1956)が忘れられない。新珠三千代主演で、なぜか河津清三郎と轟夕起子も忘れがたい。その原作こそ芝木好子の小説「洲崎パラダイス」だった。現在の東陽町にはマンション群が建ちならんで、あのパラダイスの面影はなく、「夜寒」もすっかり様変わりした。この「河」は隅田川だと思う。(小名木川ではあるまい。)浅草で育った好子には、もともと一帯の土地勘があり、「洲崎パラダイス」を書くにあたって取材もしただろうから、赤線の街の夜寒は敏感に感じていただろう。河添の街の夜寒は格別かなしいだろうし、夜ごとの灯りも女も、やってくる男たちもかなしい。こういうかなしい街がなくなりつつあるのは結構だが、「女性が輝く職場」を標榜して、内閣の認証式で女性閣僚を周囲に侍らせてにっこりしていた総理大臣に、あきれて二の句がつけなかったのは、私だけだろうか。久保田万太郎に「吉原の菊のうはさも夜寒かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 29102014

 秋深し四谷は古き道ばかり

                           入船亭扇橋

語だけでなく、俳句でも長年特異な境地を詠みつづけてきた扇橋は、2011年に脳梗塞で倒れてしまった。そのおっとりした独自の高座はもうナマで聴くことはむずかしい。とりわけ「茄子娘」という落語のほんのりとした色気と可愛らしさは、他の落語家では出せない味だった。「弥次郎」も傑作だった。客をうならせるような名人芸という、そんなおおそれたものではないところが魅力なのだ。掲出句は倒れる前年に詠まれた句である。出張った句ではない。脱線して記すと、私が所属している句会の一つ「有楽町メセナ句会」は、四谷三丁目にある会場で毎月開催している。ここは昔の四谷第四小学校の旧校舎(まだがっしりしている!)であり、扇橋と最も親しい柳家小三治が卒業した小学校である。私たち十人たらずは通常の句会が終わると、荒木町界隈にもぐりこんで連句のつづきを巻きあげたりして、静かに飲食している。路地はたしかに古くて深く、なかなか抜けられない「道ばかり」である。四谷の秋にどっぷり浸かっての句会……。扇橋が「落語っていうのは哀しいねェ」と言ったという言葉に、小三治はくり返し口にしている。笑って笑って、やがて哀しき……、言い得ている。掲出句と同じ年の句に「河童忌や田端の里に雨ほそく」がある。『友ありてこそ、五・七・五』(2013)所載。(八木忠栄)


November 05112014

 莖漬の石空風となる夜かな

                           百田宗治

般に「茎漬」という言い方はあまり聞かないが、蕪や大根などを葉や茎も一緒に塩漬けしたもの。葉や茎をつけたままの塩漬けや糠漬けには、野趣が感じられうまさが増す。冬場の漬物にはいっそうのうまさがある。そんな時季だから、漬物の「押し」となっているごつい石にも、格別寒々としたものが感じられる。外は空風が吹いている。台所でふと目にした漬物石であろう。昔はどこの家でも、代々使われてきた桶と代々使われてきた石がセットになって、自家製の漬物が姑から嫁か娘へと伝授されていた。外は空風、冷え冷えとした石の下では、茎漬が刻々と味よく漬かっていく。石、塩、空風……そんな夜である。「民衆詩派」のひとりだった宗治は、広くはあまり知られていない詩人だけれど、よく知られた♪どこかで春がうまれてる……の歌の作詞者である。宗治は昭和十年代末頃から、萩原朔太郎、室生犀星、西脇順三郎たちを月例句会に誘い、その後「句帖」を創刊した。俳句的詩風への変化を指摘されたこともある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 12112014

 錦秋の中に小さき小海線

                           中島誠之助

ごとな秋色に彩られた紅葉を錦秋と呼ぶことは、俳人ならずともご存知のはず。紅葉のさかりの山などは、まるで山火事のごとく激しく炎え立っている。小淵沢から小諸まで通じているのが小海線。のどかなローカル線である。私はかつて、仕事で八ヶ岳へ行くのに何回となくこの線を利用したことがある。沿線は観光的に開発されてしまったが、場所によっては電車の窓いっぱいに錦を広げたか、と錯覚されるような紅葉が見られる。また、高原のコスモスの鮮やかな色どりも忘れがたい。錦に包まれたような丘陵や山を縫うようにして、二、三輛編成の電車がゆったりコトコト走っている。電車も炎え立つ錦にすっぽり包まれているようだ。誠之助はご存知の古美術鑑定家。私はテレビの「開運! なんでも鑑定団」が好きで観ているが、たとえ偽物でも、この人は「いい仕事していますね。大事になすってください」とやさしい言葉をかける。俳号は閑弟子(かんていし)、句集に『古希千句』(2010)がある。「俳壇」(2014.11)所載。(八木忠栄)


November 19112014

 恋人と小さな熊手買いにけり

                           清水 昶

うご存知だと思うけれど、清水昶句集『俳句航海日誌』が、今年度の「日本一行詩大賞」特別賞を受賞したことをまず喜びたい。天国の昶はもう何回も祝杯をあげてもらい、上機嫌でかつてのように酒酒酒の日々だろうと推察される。本当によかったね、カンパーイ! 生前の余白句会の場で昶はいろいろあったにせよ、厖大な数の句から井川博年他の方々が苦労して選句したもので、改めてまとめて読んでみるとおやおや。「いいじゃないか!」という声が少なからずあがった。やはり俳句は束にして読みたいものだ。先夜は彼の誕生日の小さな集まりが、彼が入りびたっていた吉祥寺の中清であった。急逝からはや三年半になる。掲出句は2004年の作だ。素直でかわいい句ではないか。今年の一の酉は今月10日だったが、二の酉は22日。私は十年前、ごったがえす鷲神社まで行った際、バカでかい熊手とそこに添えられた「石原慎太郎」という大きい札を見て、しらけてしまったことが忘れられない。ずらりとならぶバカでかくて派手な熊手は見るだけして、買うのはもちろん小さいほうだ。掲出句の隣に「とことこと我に従ふ寒鴉」という句がならんでいる。寒鴉よ、昶に従ってどうなるというのだ?『俳句航海日誌』(2013)所収。(八木忠栄)


November 26112014

 凩に襟を立てれば戦後かな

                           阿部恭久

年の凩一号は、関西・関東地方とも10月27日に記録されている。日増しに寒さはつのるばかり。ワイシャツでもコートでも、襟を立てている若者がいるし、普段はオシャレでなくとも凩が強い日だと、人は思わず襟を立てたくなってしまう。あの襟にはそういう機能も果たしているのだ。思い出すのは、寺山修司は凩や寒さに関係なく、普段から意識的にコートの襟を立てていることが多かった。それがまたカッコ良かったよなあ。カッコ良くない人は、どうか気取って襟など立てませんように。襟が汚れるだけですよ。襟を立てることによって戦後がはじまったわけではない。けれども「襟を立て」るという、ちょっと気取った様子と「戦後」のうそ寒さが妙な具合に呼応して感じられ、どこかホッとさせられるような、懐かしいような……。敗戦で精神的に落ち込んでいた日本人の、やり場のない淋しさ、悔しさ、窮乏感と寒さが、凩と向き合った際、せめて襟を立てるという行為が凛と身を起こしてくるように、私には感じられる。この句に「外套は二十世紀も擦切れて」がならんでいる。「生き事」9号(2014)所載。(八木忠栄)


December 03122014

 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

や、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 10122014

 咳こんで胸をたたけば冬の音

                           辻 征夫

咳」と「冬」で季重なりだが、まあ、今はそんなことはご容赦ねがいましょう。咳こんだら、下五はやはり「冬の音」で受けたい。「春の音」や「夏の音」では断じてない。私はすぐ作者の姿をイメージしてしまうのだが、イメージしなくとも、咳こんでたたく胸は痩せた胸でありたい。肥えた胸をドンドンとたたいても、冬のさむざむとした音にはならないばかりか、妙に頼もしくも間抜けたものに感じられてしまう。では、いったい「冬の音」とはどんな音なのか、ムキになって問うてみてもはじまらない。鑑賞する人がてんでに「冬の音」を想像すればいいのだ。掲出句は征夫がまだ元気なころの作ではないかと思われる。コホンコホンと軽い咳ならともかく、風邪であれ気管支の病気であれ、それによって起こる止まらない咳は苦しいものであり、思わず胸をたたかずにはいられない。とても「しわぶき」などとシャレている場合ではない。征夫には他に「わが胸に灯(ともしび)いれよそぞろ寒」という句もある。川端茅舎の句には「咳き込めば我火の玉のごとくなり」がある。そんなこともあります。『貨物船句集』(2001)所収。(八木忠栄)


December 17122014

 たましひの骸骨が舞ふ月冴えて

                           那珂太郎

書に「大野一雄舞踏」とある。老年になってからの大野一雄の舞踏であろう。那珂さんが大野一雄の舞踏に、興味をもっていたとしても不思議ではないけれど、お二人の取り合わせはちょっと意外な感じがする。私も若いころから、大野さんの舞踏を大小さまざまな場所で拝見する機会が多かったし、晩年の車椅子での“舞踏”も何回か拝見した。「たましいの骸骨」とか「骸骨が舞ふ」という捉え方は詩人なればこそ。舞踏評論家でそういう捉え方をした人は、おそらくいないであろう。ずばり「骸骨」は凄い。言われてみれば、たしかに「たましいの骸骨」の舞いであった。ここで「骸骨」という言葉は、もちろん嫌な意味で使われているわけではなく、まったく逆である。むしろ余計なものをふり捨てて「生」を追いつめた、清廉で荘厳な「生命体」として捉えられている。ステージを観客はみな尊崇の表情で見つめていたが、その舞踏は「荘厳」とはちょっとちがう。敢えて言えば「荘厳な骸骨」としか言いようのない舞踏だった。この句の「たましひ」という言葉こそ重要であり、至上の響きをはらんでいる。那珂太郎の俳号は「黙魚」。眞鍋呉夫らと「雹」に属した。掲出句は「雹」3号(2000)に発表した「はだら雪」十五句のうちの一句。他に「炭つぐや骨拾ふ手のしぐさにて」がある。『宙・有 その音』(2014)には191句の俳句が収められた。(八木忠栄)


December 24122014

 地上の灯天上の星やクリスマス

                           千家元麿

夜はクリスマス・イブ。とは言え、当方には格別何もない、何もしない。夕食にワインをゆっくり楽しむくらい。ツリーもターキーも関係ない。関連するテレビ番組のチャラチャラしたバカ騒ぎが邪魔臭いだけだ。「地上の灯」つまりイルミネーションは、クリスマスから始まったと思われるが、近年は12月に入ると、町並みのあちこちで派手なイルミネーションが、キリスト様と関係なくパチクリし始める。クリスマスというよりも、年末商戦がらみの風物詩となってしまった観がある。ノーベル賞受賞はともかく、経済的に有利なLEDの普及と関係があるらしい。今や「天上の星」は「地上の灯」のにぎわいに圧倒され、驚きあきれて夜通しパチクリしているのではあるまいか。掲出句における「地上」と「天上」は、まだ程よくバランスがとれていた時代のクリスマス・イブであろう。近年は「昼に負けない都会の夜の明かるさ」と嘆く声も聞こえてくる。過剰で危険な発電に強引に突っ走るのではなく、夜は星明かりをしみじみ楽しむゆとりをもちたいものである。元麿には、他に「春寒き風の動かす障子かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 31122014

 なにはさてあと幾たびの晦日蕎麦

                           小沢昭一

成17年12月の作。昭一はこの年76歳で、元気そのものだった。同年6月の新宿末広亭の高座に、初めて10日間連続出演して話題になった。連日満員の盛況だった。私は23日に聴いた。演題を「随談」として、永六輔の顔がいかに長いか、そのほか愉快な談話で客を惹きつけた。最後は例によって、ふところからハーモニカを取り出しての演奏になった。笑いあふれる高座だった。ところで、「晦日蕎麦」の風習は今もつづいているようで、12月になると、蕎麦屋には「年越し蕎麦のご予約承ります」というビラが貼り出される。私も大晦日には新潟風のいろんな料理をつついて酔っぱらったあげく、いつも蕎麦を食べてから沈没するのが恒例となっている。齢を重ねれば、誰しも「あと幾たび」とふと考えることが増えるのは当たり前。なにも「晦日蕎麦」に限ったことではない。他人事ではない詠みっぷり、さすがに昭一らしい。「なにはさて」という上五がうまい。氏はその後、(計算では)亡くなる年まで七回「晦日蕎麦」を食したことになる。掲出句とならんで「黄泉路川(よみじがわ)小巣越すも越さぬも春の風」がある。『俳句で綴る変哲半世紀』(2012)所収。(八木忠栄)




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