ム子句

July 0572014

 大日向あぢさゐ色を薄めけり

                           上野章子

の当たる場所を、日向、ととらえるのは概ね冬だろう。ひなた、というやわらかい音は、強くて濃い夏の日差しの感じとはやや違う。さらに大日向となると、そこにある光はさほど強くはないが広々と遍くゆきわたっている。作者は、たくさんの紫陽花がこんもりとまさに咲きに咲いたり、という感のある場所に居て紫陽花を見ている。雨の日には水の色を湛えていた紫陽花はことごとくしおしおと少し悲しげに見え、そこにどこか白く湿った日があたっているのだ。その真夏とは違う日の色がまさに、大日向、なのだろう。虚子の六女である作者、その句柄は天真爛漫といわれるが自由でありながら本質をとらえ平明だ。<あるだけの団扇とびとび大机><浜茶屋の夏炉に軽い椅子寄せて><夏蝶の去り残る花色いろいろ>。『桜草』(1991)所収。(今井肖子)


July 1272014

 背泳の背のすべりゆく蒼き星

                           光部美千代

つて個人メドレーの日本記録を持っていたという知人と、スポーツジムのプールで遭遇したことがある。その時四十代であった彼はその歳なりの体型であったが、水に入った瞬間、これが同じ水かと思うほど水が彼を受け入れ、まさにすべるような流れるような滑らかさで、ほとんど手足を動かさないまま二十五メートルのプールを往復した。掲出句はその時の感動を思い出させる。あの背泳ぎならそのまま海へ、満天の星を仰ぎながらやがて海とひとつになりこの惑星の一部になってしまいそうだ。〈いつまでもてのひら濡れて蛍狩〉〈海底に火山の眠る夏銀河〉。ときに繊細にときに大胆に、惹きつけられる句の多いこの句集が遺句集とはあらためて残念に思う、合掌。『流砂』(2013)所収。(今井肖子)


July 1972014

 伸びきつてゐたる暑さやタマの午後

                           高濱朋子

はタマ、の由来は様々あるらしいが現在は、庭付き平屋一戸建てに三世代のサザエさん一家同様かえって珍しい。それでも、白い猫を見て、タマ、の名前を思い浮かべる人はまだ多くいるだろう。あら、お前も暑そうねえ、とわずかな物陰に体を合わせるように身を横たえる猫に声をかける作者。そこでふと思いついた一句、猫、とせずに、タマ、とする遊び心がこの作者の持ち味の一つだ。おもしろさだけでなく、どこにでもいる白い猫のありさまを読み手が共有することは、連日の暑さをやれやれと思いつつも、日本らしい夏への愛着を共有することにつながっている。虚子の七番目の孫にあたる作者の第一句集、その名も『おそき船出に』(2014)所収。(今井肖子)


July 2672014

 道路鏡の中の百日百日紅

                           阿部正調

々車で通る道が、ある時百日紅の並木道になった。花が咲いていないときは気づかなかったが真夏、久しぶりに通ってびっくり、どうしてこんな暑苦しい並木道にしようと思ったのだろう、と驚いてから、いや待てよピンクや白の花の房が風に揺れて涼しげだと思う人もいるのかも、と思い直した。そのものに対する記憶が固定概念になっていることは花に限らずある。子どもの頃住んでいた家の前になだれるようにたくさんの百日紅が毎年咲いて、あのやや濃いめのピンクは暑さの象徴だった。いつ見てもたくさん咲いていてついやれやれと思ってしまう。そんな百日紅を夏の間中映し続けるカーブミラーが作者の身近にあるのだろう。来る日も来る日も、丸い凸面鏡いっぱいにピンクの花が映っている。本来は死角にあってこのミラーが無ければ目に留まることも無いこの花を親しく思っているか、暑苦しく思っているかは作者の記憶次第だが、百日紅の花はカーブミラーに不思議と似合う。『土地勘』(2014)所収。(今井肖子)


August 0282014

 風鈴を鳴らさぬやうに仕舞ひけり

                           齋藤朝比古

ょっとした瞬間の心理である。風鈴をはずして、別に鳴っても構わないのだけれどなんとなく、鳴らさないようにそっとしまうのだ。昔は、歩いていてどこからか風鈴が聞こえてくることもあったし、祖母の部屋の窓辺には風鈴付きの釣忍が吊るしてあったが、そういえば最近はほとんど聞くことがない。確かにこの暑さだと、日中は窓を閉め切ってクーラーをつけて過ごすから風鈴の出番がないのかもしれない。同じ作者に<風鈴の鳴りて遠心力すこし >。作者のように、せめて夕風のふれる風鈴の音色を楽しむ余裕がほしいなと思いながら、遠い記憶の中の風鈴を聞いている。『塁日』(2013)所収。(今井肖子)


August 0982014

 原爆忌乾けば棘を持つタオル

                           横山房子

日の猛暑に冬籠りならぬ夏籠りのような日々を送っているうち暦の上では秋が立ち、そしてこの日が巡って来る。一度だけでもありえないのになぜ二度も、という思いと共に迎える八月九日。八月六日を疎開先の松山で目撃した母は、その時咲いていた夾竹桃の花が今でも嫌いだと言うが、八月の暑さと共にその記憶が体にしみついているのだろう。この句の作者は小倉在住であったという。炎天下に干して乾ききったタオルを取り入れようとつかんだ時、ごわっと鈍い痛みにも似た感触を覚える。本来はやわらかいタオルに、棘、を感じた時その感触は、心の奥底のやりきれない悲しみや怒りを呼び起こす。夫の横山白虹には<原爆の地に直立のアマリリス >がある。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


August 1682014

 上層部の命令にして西瓜割

                           筑紫磐井

西瓜割、そういえば一度もやったことがないので、あらためて想像してみる。目隠しされてやや目が回った状態で、周りの声を頼りに西瓜に近づき、棒を思いきり振りおろして西瓜を割るというか叩き潰す。場合によっては見当違いの方に誘導され、空振りしている姿をはやされたり、それはそれで余興としては盛り上がるのだろうが、割れた後の西瓜の砕けた赤い果肉と同様ちょっと残酷、などと思っていたら、西瓜割協会なるものがあり、西瓜に親しむイベントとして西瓜の産地を中心に競技会が開催されているらしい。消費量と共に生産量の減少している西瓜に親しむことが目的というが、そうなると西瓜割の危うさや残酷さは無くなる。重たい西瓜を用意するのも後始末をするのも命令された方であり、思いきり棒を振りおろす瞬間によぎる何かが怖い。『我が時代』(2014)所収。(今井肖子)


August 2382014

 白桃の浮力が水を光らせる

                           東金夢明

ンクに水を張って白桃をそっと入れてみた。水に触れた瞬間、表面の産毛に細かい泡がきらきら生まれ、手を放すと桃はゆらりと少し浮く。そして、水中で自重と浮力のはざまを行ったり来たり、指で軽くつつくと沈み切ってしまう直前の危うさでたゆたっていた。無数ともいえる産毛の一つ一つがまとう光は、透明な水をより透明にして想像以上に美しい。白桃という、色合いといい形といいこの上なくやわらかいものと、浮力というやや硬い言葉と、水を光らせる、という断定的な表現との出会いが、この想像以上の美しさを鮮やかに見せている。『月下樹』(2013)所収。(今井肖子)


August 3082014

 一瞬の自死向日葵の午後続く

                           岡本紗矢

射状に広がる黄色い花弁の持つ明るさと種の部分の仄暗さ、向日葵は見る人の心情を照らす花だ。この句を引いた句集『向日葵の午後』(2014)のあとがきには「通勤時に人身事故が発生し、生きることの辛さについて思い巡らしていた時、じりじりと焼けるような太陽の下、向日葵が立ち並ぶ情景に出会った」とある。向日葵が、自死のやりきれなさに対する単なる生の明るさではなく、無常観を持ちながらも明日へ向かう静かな力を感じさせるのは、続く、という一語によるものだ。先週末、生まれて初めて訪れたいわき市の海辺に、向日葵がたくさん咲き残っていた。ときおり吹く初秋の風の中、朽ちてゆきながらまっすぐ立っている向日葵の姿は深く心に刻まれている。(今井肖子)


September 0692014

 青空とそのほかは蘆の葉の音

                           林紀之介

の蘆はちょうど今頃か、水辺にまだ青々と広がっているのだろう。真夏の青蘆の潔さは消えかけていて、渡る風音は少し乾いている。日々澄んだ青さをとり戻しつつある空、目の前には蘆原が広がり、作者はその風音の中に立っている。この句を一読した時不思議な感覚を覚えるのは、そのほかは、が視覚と聴覚をつないでいるからかもしれないが、それが違和感ではなく心地よい余韻を生んでいるのだ。空の青はまず蘆原の青につながり、そこにただ、葉の音、と言って風を感じさせることで、五五七のリズムとともに秋の爽やかな静けさが広がってゆく。<いい声の物売りがゆく鰯雲><近々と遠くの山の見えて秋>。『裸木』(2013)所収。(今井肖子)


September 1392014

 まづ月を見よと遅れて来し人に

                           安原 葉

京の十五夜はあいにくの天気だったが、九月九日十六夜の満月は美しかった。その夜は雑居ビルの一角でがやがやと過ごしていたが、八時を回ったころから入れ替わり立ち替わり連れ立っては月を見に表に出た。まさに月の友であるが、ビルの壁と壁の間の狭い空に見える月もなかなかいいね、などと言い合いながら数人で空を見上げてぼーっとただ立っている様は、傍から見ればやや不審だったかもしれない。俳句に親しむ人々はことに月に敏感で月を好む。掲出句も佳い月の出ている夜の句会での一句だろう。句意は一読してわかりやすいものだが即吟と思われ、省略の効いた言葉で一場面を切りとることで、句座の親しさとその夜の月の輝きを思わせる。『生死海(しょうじかい)』(2014)所収。(今井肖子)


September 2092014

 葛の葉の吹きしづまりて葛の花

                           正岡子規

ず香りで気づくことが多い葛の花。成長期には一日数十センチメートルも伸びるというから強烈な生命力である。掲出句は、これが葛の花よ、と教わったとき一緒に教えられた句でその時は、ふーん、と聞き流してしまったように思うのだが、秋になって葛の花に出会うたびに心に浮かんで、気がつくと愛誦句となっていた。群生する大きな葛の葉を吹き渡る秋風、その風が止んだ後いつまでも残る花の香りが余韻となって続く。静かな句ほど印象深いということもあるのだろう。昨日九月十九日は子規忌日、秋に生まれ秋に逝った子規である。『花の大歳時記』(1990・講談社)所載。(今井肖子)


September 2792014

 豊年の畦といふ畦隠れけり

                           若井新一

米が味わえるうれしい季節、電車で少し遠出をすればまさに黄金色の稲田が車窓のそこここに広がっている。農業技術が進歩し、全てお天道様頼みだった昔と違い豊年と凶年の差はさほどなくなっているかもしれないが、食べる一方で米作りの苦労を知らない身でも、豊年、豊の秋、という言葉には喜びを感じる。この句の作者は新潟生まれ、句集『雪形』(2014)のあとがきには「日本でも屈指の豪雪地帯で、魚沼コシヒカリを作っている」とある。<畦々の立ち上がりたる雪解かな ><土の色出で尽したる代田掻 ><霊峰や十指せはしき田草取 ><かなたまで茎まつすぐに稲の花 >。日々の実感から生まれる確かな句。ことに掲出句の視線の高さは、大地に立ち一面に実った稲田を見渡している者ならでは、見えない畦を詠むことで一面の稲穂が見える。早春、雪が解けてやっと立ち上がった畦が見えなくなるほどの今の実りを前にしている感慨、ここには豊年の言葉が生きている。(今井肖子)


October 04102014

 ひらがなの名のひととゆく花野かな

                           松本てふこ

野は、華やかだけれどもどこか淋しい、というイメージをまといながら概ねさりげなく詠まれる。そして、読み手それぞれの花野はまちまちでも、はなの、というやわらかい音と共に広がる風景に大差はなく、ああそういう感じだな、と共感を生む。だが、掲出句は少し違っている。そういう感じだな、と客観的に鑑賞するような感覚ではなく、すぐに花野の中を歩いているような心地がするのだ。ひらがなの名のひととゆく、という一つの発見は、花野の風の感触と匂い、明るさとひとことでは言いようのない光の色、それらをごく自然に浮かび上がらせ、読み手は秋に包まれる。「俳コレ」(2011・邑書林)所載。(今井肖子)


October 11102014

 日本は蜥蜴のかたち秋日和

                           野崎憲子

んやりとした残暑の空に澄んだ気配が感じられるようになったと思っていたら次々と台風がやってきて、雲ひとつない高い空を仰ぐことがほとんどないまま秋が深まってきてしまった。台風情報を得るために天気図を見る機会が多く、小さいながらも日本は細長いなと思っていたが、蜥蜴のかたち、とは個性的だ。多分、日向にじっとしている蜥蜴を見ているうちに、大きめの頭が北海道に、くねっとした体が本州に見えてきて、ということだろう。それでも十分自由な発想だが、もしかしたら作者は常々、日本列島って蜥蜴っぽいな、と感じていたのかもしれない。蜥蜴は夏季なので句にできそうだけれど、ただ形が似ていると言ってもつまらないし、と思っていたら、秋の日に誘われて出てきた蜥蜴に遭遇。明るさの中の瑠璃色の蜥蜴が生んだ秋日和の一句、にっぽん、という歯切れの良い音がさらに心地よい。『源』(2013)所収。(今井肖子)


October 18102014

 なによりも会いたし秋の陽になって

                           佐々木貴子

秋の日差し、遠くなつかしいその色合いと肌ざわりは自分の中で季節が巡ってくるたびに、ああ、と思いあれこれ作っては消えるテーマの一つになっている。この句は、なかなか言葉にならなかった一コマを浮かび上がらせてくれた気がして、そんな気がしたことに自分で驚いた句である。会いたい、という主観が前面に出ているし、一文字が語りすぎるからなるべく、陽、ではなく、日、を使う方がよい、と言われて来たのだがそれらを超え、光の色が広がる。なによりも、と、会いたし、のたたみかける強さと、陽、の持つ明るさがありながら、そこに広がる光は不思議なほど静かに心象風景とシンクロしたのだが、読み手によって印象が違うと思われ、それも魅力だろう。『ユリウス』(2013)所収。(今井肖子)


October 25102014

 秋の蚊の灯より下り来し軽さかな

                           高濱年尾

の中や家の中にふと蚊が一匹紛れ込んでくることがある。今年は例の騒動で秋の蚊にはことに敏感に反応、すぐさま追い出したり叩いたりしてしまったので掲出句のように観ることもなかった。この句、大正七年作者十八歳、開成中学五年の時の作。当時余りに俳句に熱心な年尾に虚子は、中学生としての本分である勉強に専念せよ、と俳句を禁じたが名前を変えて「ホトトギス」に投句した、という逸話もあるという。そんな年尾青年が秋灯下、一匹の蚊を見つけその動きをじっと見つめ考えている様子が浮かぶ。どこか心もとなく弱々しい様から、軽さかな、という下五がごく自然に口をついて出た時、句をなした実感があったのではないか。明日十月二十六日は年尾忌。「高濱年尾の世界」(1990・梅里書房)所載。(今井肖子)


November 01112014

 柿紅葉檻の奥より目の光る

                           山崎祐子

う十一月、と毎年のように思うが東京の紅葉黄葉はこれから、ベランダから見える欅は天辺のあたりだけ少し色づいて青空に揺れている。欅や銀杏、楓などは日の当たるところから徐々に染まってやがて一色になるが、桜は初めの頃一本の木の中で遅速があり遠くから見ると油絵のようだ。さらに柿紅葉の中には一枚がまだら模様になっていて鮮やかな中に黒い斑点があるものも。それはそれで美しいのだがどこか不思議でちょっと不気味でもある。この句の柿紅葉は夕日色の紅葉ではなくまだらな紅葉だろう。目の前に柿紅葉、あたりには柿落葉、肌寒さを覚えそろそろ帰ろうかと首をすくめて歩き出そうとしたとき、檻の中にいるそれと目が合う。それがなんであっても印象は冷たい目の光にあり、そこには木枯らしとまでは言えない晩秋の風が吹き抜けてゆく。『点睛』(2004)所収。(今井肖子)


November 08112014

 帰り花顔冷ゆるまでおもひごと

                           岸田稚魚

だ帰り花といえば桜、この句の帰り花もそうだろう。何かをずっと考えながら、ゆっくり歩いているのかベンチに座っているのか。ふと空を見上げたその視線の先に帰り花が光っていたのだ。その瞬間の小さな驚きと、口元が少しほころんでしまうくらいの喜びに、現実に引き戻された作者はのびの一つでもして大きく深呼吸をしたことだろう。おもひごと、という表現はそれほど深刻な悩みという感じではなく、唯一むきだしの顔は気づけば冷えきってしまっているけれど寒くてつらいというわけでもなく、作者のなんとなく微笑んだ顔が浮かんでくるのは、帰り花であるからこそだ。やはり帰り花は、咲いてないかなあ、と探すものではないのだとあらためて思った。『関東ふるさと大歳時記』(1991・角川書店)所載。(今井肖子)


November 15112014

 七五三しつかりバスにつかまつて

                           綾部仁喜

+五+三=十五、だから十五日に七五三を祝う、というのは俗説のようだが、枯れ色の深まっていくこの時期、七五三の小さな晴着姿は色鮮やかで目を引く。七五三というと、そんなかわいらしさや着慣れないものを着て疲れて眠った姿などが句となっているのをよく見るが、この句の切り取った風景は極めて現実的だ。目に浮かぶのは作者の視線の先の子供の横顔と、太すぎるパイプをぎゅっと握りしめている小さな手。バスは揺れ、そのたびに転ぶまいとこれまた履きなれない草履の両足を踏ん張る。バスにつかまる、というのはかなり大胆な省略だがリアリティがあり、子供から少女へ、さらにその先の成長をも感じさせる七五三ならではの一句となっている。藤本美和子著『綾部仁喜の百句』(2014)所載。(今井肖子)


November 22112014

 暮るるよりさきにともれり枯木の町

                           大野林火

木は、すっかり葉が落ちてまるで枯れてしまったように見える木のことで冬木に比べ生命力が感じられないというが、枯木の町、には風が吹き日があたり人の暮らしがある。まだ空に明るさが残っているうちからぽつりぽつりとともる窓明り。ともれり、が読み手の中で灯る時、冬の情感が街を包んでゆく。この句は昭和二十六年の作だが同年、師であった臼田亜浪が亡くなっている。その追悼句四句の中に〈火鉢の手皆かなしみて来し手なり〉があるが、このかなしみもまた静かにそして確かに、悲しみとなり哀しみとなって作者のみならず読み手の中に広がってゆくだろう。『青水輪』(1953)所収。(今井肖子)


November 29112014

 なきがらを火の色包む冬紅葉

                           木附沢麦青

たこの季節がめぐって来たな、と感じることは誰にもあるだろう。それは、戦争や災害など多くの人が共有することもあれば、ごく個人的な場合もある。私の個人的な場合はちょうど今時分、父が入院してから亡くなるまでのほぼひと月半ほどのこと。病院へ向かう道すがら、欅紅葉が色づいてやがて日に日に散っていった様がその頃の心の様と重なる。掲出句の作者は、今目の前の冬空に上ってゆくひとすじの煙を見上げながら鮮やかな冬紅葉の色に炎の色を重ねつつ、亡くなったその人を静かに思っている。冬紅葉、の一語に、忘れられない風景と忘れかけていた淋しさが広がるのを感じている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


December 06122014

 蓮枯れて水に立つたる矢の如し

                           水原秋桜子

池の夏から冬への変貌は甚だしく、枯蓮の池は広ければ広いほど無残な光景がどこまでも続く。そんな一面の枯蓮のさまを目の前にして戦を想像し、折れた矢を連想することはあるだろう。しかし作者は、枯蓮が折れているところよりまっすぐなところを見ている。水に立つ、という表現には、危うさとその奥の強さが共存し、よりくっきりと折れた茎の鋭角を思わせる。この句が作られたのは、屋島の射落畠(いおちばた)。源平合戦の激戦地として知られ、源氏の佐藤継信が義経の身代わりとなって命を落とした地であるという。昭和三十年代当時は蓮池に囲まれていたようだが今はその池も無くなっている。水原春郎編著『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)所載。(今井肖子)


December 13122014

 焚火してけふを終らす大工かな

                           松川洋酔

斗缶の火を囲む数人の大工、その日に出たカンナ屑など燃やしているのだろう。煙の香りが懐かしくよみがえるが、在来工法が少なくなった上、おいそれと焚火などできなくなってしまった現在ではほとんどお目にかかれない光景だろう。先日も二十代後半の知人に、キャンプファイヤー以外の焚火を見たことがない、と言われて驚いたがよく考えてみれば、さもありなんだ。掲出句は平成二十四年の作。<水舐めて直ぐにはたたず冬の蝶    >など、よく見て一句を為す作者であるが掲出句の、かな、は、過去の一場面をふと思い出しているような余韻が感じられる。<   湯たんぽの火傷の痕も昭和かな >。『水ゑくぼ』(2014)所収。(今井肖子)


December 20122014

 着ぶくれてゐても見つけてくれる人

                           石塚直子

、重くて肩が凝るという理由で真冬でも薄着していたら、寒い時薄着をしていると体の防衛本能が働いて脂肪が付きますよ、ほらトドみたいに、と言われ慌てて分厚いコートを着たことがあった、今は高性能のインナーやダウンジャケットがあるので助かる。そのダウンジャケットも、膨らんで見えるから着ません、と言っている知人もいるし、雑誌には、着ぶくれしないダウンジャケットの選び方、が特集されていたりする。伊達の薄着に象徴される我慢が、粋すなわちお洒落に通じるとすれば、安心して着ぶくれることは甘えに通じるということか。若い二人にとってはそんな甘えも文字通り心地よい甘さなのですね。『古志青年部作品集 第二号』(2013)所載。(今井肖子)


December 27122014

 おほかたは灯の無き地上クリスマス

                           亀割 潔

前目にした、宇宙から見た夜の地球、の画像を思い出す。煌々と輝いている灯の美しさに驚きながら、あらためてこれ全部電気なのだと複雑な気分になった覚えがある。それは、地球という生きている星に人間が寄生している証のようにも思えた。掲出句を読んで、あらためて国際宇宙ステーションからの映像を見てみると、眩い光は深い藍色の闇の中に浮きあがっている。掲出句の作者は、クリスマスツリーやイルミネーションの光から、それとはほど遠い彼方の大地やそこに生きる人を思っているのだろうか。自在な発想は<山眠る小石の中に川の記憶>などの句にも感じられる。『斉唱』(2014)所収。(今井肖子)




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