August 042014
蝉時雨何も持たない人へ降る
吉村毬子
いま蝉時雨に降りこめられた格好で、これを書いている。午後一時半。気温は33度。先ほどまで35度を越えていた。何度か読んで、この句は二通りに解釈できると思った。一つは全体をスケッチのように捉えて、文字通りに何も持たない手ぶらの人が、激しい蝉時雨のなかで、暑さにあえいでいる図。しかしこの人は、あえいではいるけれど、へこたれてはいない。暑さをいずれはしのいでやろうという心根がかいま見える。もう一つの解釈は、何も持たないことを比喩的に捉えて、たとえば資産的にもゼロの状態にあり、血縁などももはや無し。世間とはほとんど無縁というか孤立状態に追い込まれていて、少し普遍化してみれば、この状態は多くの老人のそれといってよいだろう。そんな老人に、もはや蝉時雨に抗する元気はない。真夏の真昼どき、蝉時雨に追い立てられるようにして歩いていく。それを見ている作者のまなざしには、憐憫ではなくてむしろ愛惜に近い情がこもっている。誰にとっても、明日は我が身なのである。『手毬唄』(2014)所収。(清水哲男)
December 112014
飲食のあと戦争を見る海を見る
吉村毬子
夕食時に食事時にテレビをつければイスラム国での戦闘の画面が映し出され、次のニュースでは南半球のリゾート地でのバカンスに切り替わる、一つの部屋にいながらにしてテレビは次々と世界で同時的に起こる映像を映し出す。漫然と通り過ぎる画像を食事をしながらリビングで見る生活が歯止めなく流れてゆく。掲載句ではそうした現実を踏まえつつ、現実から少し浮遊したところで書きとめている印象だ。句に意味づけをするつもりははないのだけど、無季であるだけに「いんしょく」と読むか「おんじき」と読むかで句の色合いが変わってくるように思う。「おんじき」と読むと「飲食のあと」の言葉の響きに終末感が漂う。戦争と海の概念性が増し「見る」主体に「わたくし」ではない超越的な神の目を思わずにはいられない。日常的な飲食のくり返しの果てに戦争を見て、海に全てのものが飲み込まれてゆくのを見る、そんな怖さを感じさせられる。『手毬唄』(2014)所収。(三宅やよい)
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