広島忌。あやまちを二度とくりかえさせるな。くりかえすな。(哲




2014ソスN8ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0682014

 麦飯の熱(ねつ)さめがたき大暑かな

                           宮澤賢治

ろろめしには麦飯がふさわしい。麦とろ。近年では、麦飯はヘルシーなレシピとして好まれるケースが多い。賢治の場合はその時代からしてヘルシーどころか、やむを得ず米に麦を混ぜた麦飯であろう。凶作の年は、稗や粟も米に混ぜたし、大根めしもあった。凶作の東北では珍しいことではなかった。この国では産米が余って、近年は減反政策がしばらく実施されて来たのだが、今になってそれを見直すのだという。この国の農業政策の無為無策ぶりは相変わらずである。さて、「大暑」は本来7月22日頃の酷暑をさす二十四節気の一つだが、このところの連日の暑さにあきれて、今回は少々遅れて賢治句に登場ねがった。暑いときだから炊きたての麦飯ではたまらない。冷まして漬物でさっさと食べたいのだろうが、団扇で暑さに耐えながらしばし待っているといった図か。賢治が実際に遭遇した光景かもしれない。実感がこめられている。当方もふところが淋しいときには、麦飯によるとろろめし。それに佃煮か焼いた丸干をかじる素朴な麦とろは、安値ながらも妙に心が落ち着いたものである。賢治の俳句は少ないけれど、「目刺焼く宿りや雨の花冷に」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0582014

 天国は駅かもしれず夏帽子

                           阿部知代

くなった方を悼むとき、残された者の悲しみより前に、病や老いの苦しみから解放されたことに安堵したいと思う。自由になった魂の行方を思うと、少しだけ気持ちが明るくなる。天国とは、死ののちの出発点でもある。そこからさまざまな行き先を選び、もっとも落ち着く場所へと扉が開かれることを思い、作者はまるで駅のようだと考える。仰々しい門のなかの最後の審判や、三途の川の向こうの閻魔様の裁きなどとは無縁の軽やかだった人の死に、駅とはなんとふさわしい場所だろう。何も言わず長い旅に出てしまった人に向けて明るく夏帽子を振ってみる。前書に悼九条今日子。改札には夫であった寺山修司が迎えに来ていたかもしれない。「かいぶつ句集」(2014年6月・第77号)所載。(土肥あき子)


August 0482014

 蝉時雨何も持たない人へ降る

                           吉村毬子

ま蝉時雨に降りこめられた格好で、これを書いている。午後一時半。気温は33度。先ほどまで35度を越えていた。何度か読んで、この句は二通りに解釈できると思った。一つは全体をスケッチのように捉えて、文字通りに何も持たない手ぶらの人が、激しい蝉時雨のなかで、暑さにあえいでいる図。しかしこの人は、あえいではいるけれど、へこたれてはいない。暑さをいずれはしのいでやろうという心根がかいま見える。もう一つの解釈は、何も持たないことを比喩的に捉えて、たとえば資産的にもゼロの状態にあり、血縁などももはや無し。世間とはほとんど無縁というか孤立状態に追い込まれていて、少し普遍化してみれば、この状態は多くの老人のそれといってよいだろう。そんな老人に、もはや蝉時雨に抗する元気はない。真夏の真昼どき、蝉時雨に追い立てられるようにして歩いていく。それを見ている作者のまなざしには、憐憫ではなくてむしろ愛惜に近い情がこもっている。誰にとっても、明日は我が身なのである。『手毬唄』(2014)所収。(清水哲男)




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