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August 1382014

 茗荷食み亡き友の癖思い出す

                           辻井 喬

マのまま刻んで薬味によし、味噌汁に入れて茗荷汁よし、天ぷらでよし、酢漬けでよしーー茗荷は重宝でうれしい野趣あふれた山菜である。屋敷のあちこちや山野へ出かけ、時季になると袋一杯に茗荷を採ってあるくことが、子どものころから私は好きだった。あの茶色なつややかさ、ぽってりとした茎が薄黄色の花をつける。子どもの頃うちではたくさん採れると、蒸かして芥子醤油でたんまり食べたり、味噌漬けにしたりした。晩夏に出る秋茗荷(花茗荷)は、花が出はじめる前が食べごろ。「その花、開かざるのとき、採りて食す」(『滑稽雑談』)と言われる通りである。あの独特の風味は何とも言えずうれしい。春にのびる茗荷竹もちがったおいしさがあった。「人はなくて七癖、あって四十八癖」と言われるが、この句の場合「亡き友」には、いったいどんな癖があったのだろうか? その友はおそらく茗荷が好きだったにちがいない。喬には『故なくかなし』『命あまさず』など、俳句小説もあった。自ら俳句も少々たしなんで、平井照敏主宰の「山の上句会」に忙しい合間をぬって参加したりもした。喬は惜しまれつつ昨年「亡き」人となってしまった。彼岸で時折、五七五の指を折ったりしておいでだろうか。日野草城の句に「人知れぬ花いとなめる茗荷かな」がある。「翡翠」389号(2014)所載。(八木忠栄)


January 0512015

 獅子舞の目こそ哀しき平和かな

                           辻井 喬

句では「平和」というような抽象的直裁的な表現を嫌うようだが、それは使い方によるもので、この句では「平和」がよく効いている。獅子頭の目はただ黒々と丸く描かれたものだから、何の感情も宿してはいない。人形などのそれのように、だからこそ逆に見るものの見方によってさまざまな感情を表すことになる。句意は獅子の目を見ているとその大きく見開かれた瞳が、現今の「哀しき平和」の様態を映し出しているように見えるというわけだが、同じ「平和」と言ってもその様態はさまざまだ。「平和」とは単に戦争の無い様態を言うこともできるけれど、内容的には大きな深浅の違いがあるだろう。簡単に言っておけば、戦後日本の「平和」は、戦後十五年ほどが最も深かった。もう戦争は御免だという意識が国民的な広がりを持っていて、再軍備などはとんでもないという理屈以前の根拠が大きな力を持っていた。国は貧しかったが、こんな時代はおそらく史上はじめてだつたと思う。「平和を守れ」とは単なるお題目ではなかった、それが今はどうだろう。戦争を知る世代の作者は、大きな哀しみをもって、お題目と化しつつある浅き「平和」の様態を眺めているという図だ。何をかいわんや。空爆くらいしか戦争を知らない私にしてからが、いまの「平和」の浅さには呆然としてしまう。「毎日新聞」(2014年5月24日・夕刊)所載。(清水哲男)




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