風邪だなんだでゴロゴロしいるうちに九月もおしまいだ…。(哲




2014ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2992014

 人知れず秋めくものに切手帳

                           西原天気

の回転のはやい人なら、「秋」を「飽き」にかけて読んでしまうかもしれない。それでも誤読とまでは言えないが、なんだか味気ない読みになってしまう。どこにも「飽き」なんて書いてない。「秋」はあくまでも「秋」である。中学時代、私もいっぱしの(つもり)の切手コレクターであった。半世紀以上経たいまでも、切手専用のピンセットのことや貼り付けるためのヒンジ、ストックブック(切手帳)ならドイツ・ライトハウス社製の重厚な感触など、いろいろと思い出すことができる。なけなしの小遣いをはたいて切手の通信販売につぎ込み、カタログを睨んで一点ずつ集めていたころが懐かしい。そうした熱気の頃を夏とすれば、やがて訪れてくるのは「秋」である。この時季にさしかかると、さながら充実した木の実が木を離れてゆくように、切手への興味が薄れていく。飽きるからではなく、実りが過剰になるからなのだ。つまり「人知れず秋めく」わけだが、この感覚はコレクターを体験しないとわからないかもしれないな。「はがきハイク」(第10号・2014年9月)所載。(清水哲男)


September 2892014

 綾取りの綾なす吾の暮しかな

                           茂木房子

という言葉が気になっていました。先日、野球解説者の吉田義男が、「タイガースはここで勝負のアヤをつける必要がありますね」と言ったのにひっかかり、そういえば将棋の解説でも、「ここはちょっと玉頭にアヤをつけておきますか」というようなことを耳にします。洒落た言い方ですが、その本義が不明でした。大漢和では、「浮き出た感じに模様を織り込んだ薄い絹布。光る部分と光らない部分を織り出している絹織物」とあり、絹布の装飾ということがわかりました。「ことばの綾」という使われ方は、この本義から派生した用法でしょう。また、「あや織り」は、経(たて)糸と緯(よこ)糸の布面に斜めのすじを織り出した布のことを言い、糸が錯綜して模様を作っている状態です。野球や将棋の解説で使われる「アヤ」は、局面が硬直していたり劣勢のときに、正攻法とは違った角度から打開する手だてのことを言うのでしょう。こんなことを踏まえて掲句を読むと、「綾取りの綾なす暮し」が、巧みな生き方であることがわかります。綾取りは、糸が構成する平面や立体を二人が交互に何通りか繰り返す遊びです。これは、お互いにパターンを共有していなければ遊びが続きません。「吾の暮し」では、相手と互いに向き合い続けてやりとりしていることが前提となります。それは、時に二人の間に絡みついた糸のほつれをほどくことでもあるのでしょう。また、新たに糸を張ることでもあるでしょう。この巧みに綾なす生き方は、四季を通しておこなわれており、ゆえに季語はありません。『モネの絵』(2006)所収。(小笠原高志)


September 2792014

 豊年の畦といふ畦隠れけり

                           若井新一

米が味わえるうれしい季節、電車で少し遠出をすればまさに黄金色の稲田が車窓のそこここに広がっている。農業技術が進歩し、全てお天道様頼みだった昔と違い豊年と凶年の差はさほどなくなっているかもしれないが、食べる一方で米作りの苦労を知らない身でも、豊年、豊の秋、という言葉には喜びを感じる。この句の作者は新潟生まれ、句集『雪形』(2014)のあとがきには「日本でも屈指の豪雪地帯で、魚沼コシヒカリを作っている」とある。<畦々の立ち上がりたる雪解かな ><土の色出で尽したる代田掻 ><霊峰や十指せはしき田草取 ><かなたまで茎まつすぐに稲の花 >。日々の実感から生まれる確かな句。ことに掲出句の視線の高さは、大地に立ち一面に実った稲田を見渡している者ならでは、見えない畦を詠むことで一面の稲穂が見える。早春、雪が解けてやっと立ち上がった畦が見えなくなるほどの今の実りを前にしている感慨、ここには豊年の言葉が生きている。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます