九月尽。ろくでもない月だった。来月は良い月になりますように。(哲




2014ソスN9ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 3092014

 間取図のコピーのコピー小鳥来る

                           岡田由季

越先の部屋の間取りを見ながら、新しい生活をあれこれと想像するのは楽しいものだ。しかし、作者の手元にあるのはコピーをコピーしたらしきもの。その部分的にかすれた線や、読みにくい書き込みは、真新しい生活にふさわしくない。しかし、作者は大空を繰り返し渡ってくる小鳥の姿を取り合わせることで、そこに繰り返された時間を愛おしむ気持ちを込めた。引越しによって、なにもかもすべてがリセットされるわけではない現実もじゅうぶん理解しつつ、それでもなお新しい明日に希望を抱く作者の姿が現れる。図面といえば、以前は図面コピーの多くは青焼きだった時代があった。青空を広げたような紙のしっとりと湿り気をおびた感触と、現像液のすっぱい匂いをなつかしく思い出している。〈箒木の好きな大きさまで育つ〉〈クリスマスケーキの上が混雑す〉『犬の眉』(2014)所収。(土肥あき子)


September 2992014

 人知れず秋めくものに切手帳

                           西原天気

の回転のはやい人なら、「秋」を「飽き」にかけて読んでしまうかもしれない。それでも誤読とまでは言えないが、なんだか味気ない読みになってしまう。どこにも「飽き」なんて書いてない。「秋」はあくまでも「秋」である。中学時代、私もいっぱしの(つもり)の切手コレクターであった。半世紀以上経たいまでも、切手専用のピンセットのことや貼り付けるためのヒンジ、ストックブック(切手帳)ならドイツ・ライトハウス社製の重厚な感触など、いろいろと思い出すことができる。なけなしの小遣いをはたいて切手の通信販売につぎ込み、カタログを睨んで一点ずつ集めていたころが懐かしい。そうした熱気の頃を夏とすれば、やがて訪れてくるのは「秋」である。この時季にさしかかると、さながら充実した木の実が木を離れてゆくように、切手への興味が薄れていく。飽きるからではなく、実りが過剰になるからなのだ。つまり「人知れず秋めく」わけだが、この感覚はコレクターを体験しないとわからないかもしれないな。「はがきハイク」(第10号・2014年9月)所載。(清水哲男)


September 2892014

 綾取りの綾なす吾の暮しかな

                           茂木房子

という言葉が気になっていました。先日、野球解説者の吉田義男が、「タイガースはここで勝負のアヤをつける必要がありますね」と言ったのにひっかかり、そういえば将棋の解説でも、「ここはちょっと玉頭にアヤをつけておきますか」というようなことを耳にします。洒落た言い方ですが、その本義が不明でした。大漢和では、「浮き出た感じに模様を織り込んだ薄い絹布。光る部分と光らない部分を織り出している絹織物」とあり、絹布の装飾ということがわかりました。「ことばの綾」という使われ方は、この本義から派生した用法でしょう。また、「あや織り」は、経(たて)糸と緯(よこ)糸の布面に斜めのすじを織り出した布のことを言い、糸が錯綜して模様を作っている状態です。野球や将棋の解説で使われる「アヤ」は、局面が硬直していたり劣勢のときに、正攻法とは違った角度から打開する手だてのことを言うのでしょう。こんなことを踏まえて掲句を読むと、「綾取りの綾なす暮し」が、巧みな生き方であることがわかります。綾取りは、糸が構成する平面や立体を二人が交互に何通りか繰り返す遊びです。これは、お互いにパターンを共有していなければ遊びが続きません。「吾の暮し」では、相手と互いに向き合い続けてやりとりしていることが前提となります。それは、時に二人の間に絡みついた糸のほつれをほどくことでもあるのでしょう。また、新たに糸を張ることでもあるでしょう。この巧みに綾なす生き方は、四季を通しておこなわれており、ゆえに季語はありません。『モネの絵』(2006)所収。(小笠原高志)




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