昨日の午後、近畿地方で木枯し1号が吹いた。昨年より8日早い。(哲




2014N1028句(前日までの二句を含む)

October 28102014

 いつよりか箪笥のずれて穴惑

                           柿本多映

位置に置かれている箪笥。部屋の大物は一度場所を定めたら、よほどのことがない限り動かすことはない。いつもの見慣れた部屋の配置である。とはいえ、あるときふとあきらかに箪笥が元の位置よりずれていることに気づく。わずかに、しかし確固たるずれは、絨毯の凹みか、あるいは畳の焼け具合がくっきりと「これだけずれました」と主張しているようで妙に不気味に思われる。確かにここにあったはずのものがこつぜんと消失したりすることなど、日常によくあるといえばあることながらホラーといえばホラーである。穴に入り損なってうろうろしている蛇のように、家具たちも収まる場所が違うとよなよな身をよじらせていたのかもしれない。知らず知らずのうちに狂っていくものに、薄気味悪さとともに、奇妙な共感も得ているように思われる。〈ゆくゆくは凭れてみたし霜柱〉〈たましひに尻尾やひれや蟇眠る〉『粛祭』(2004)所収。(土肥あき子)


October 27102014

 矢の飛んできさうな林檎買ひにけり

                           望月 周

しぶりに、子供のころに読んだ物語を思い出した。「矢」と「林檎」とくれば、ウィリアム・テルのエピソード以外にないだろう。14世紀の初頭、スイスはオーストリアに支配されており、やってきた悪代官は横暴の限りをつくしていた。弓の名手だったテルも難癖をつけられて捕えられたが、意地悪な悪代官は彼に、幼い息子の頭に乗せた林檎を遠くから矢で射ぬけたら、命を助けてやろうと言われる。そこでテルは見事に林檎を射ぬくことに成功し、携えていたもう一本の矢で代官を射てしまう。子供向けの話はここで終わるのだけれど、このテルの働きが導火線となって、スイスはオーストリアの支配下から脱出したのであった。ただし、定説では、ウィリアム・テルはどうやら架空の人物であるらしい、そんな物語を想起させる「林檎」を、作者は買い求めた。平和な時代のこの林檎は、大きくてつやつやと真っ赤に輝いてたに違いない。ずしりと手に重い林檎の姿が、大昔の異国のヒーロー像とともに、読者の胸に飛び込んでくる。『白月』(2014)所収。(清水哲男)


October 26102014

 薪在り灰在り鳥の渡るかな

                           永田耕衣

者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)




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