読書週間。秋は本が売れない季節なので設けられたという説あり。(哲




2014ソスN10ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 29102014

 秋深し四谷は古き道ばかり

                           入船亭扇橋

語だけでなく、俳句でも長年特異な境地を詠みつづけてきた扇橋は、2011年に脳梗塞で倒れてしまった。そのおっとりした独自の高座はもうナマで聴くことはむずかしい。とりわけ「茄子娘」という落語のほんのりとした色気と可愛らしさは、他の落語家では出せない味だった。「弥次郎」も傑作だった。客をうならせるような名人芸という、そんなおおそれたものではないところが魅力なのだ。掲出句は倒れる前年に詠まれた句である。出張った句ではない。脱線して記すと、私が所属している句会の一つ「有楽町メセナ句会」は、四谷三丁目にある会場で毎月開催している。ここは昔の四谷第四小学校の旧校舎(まだがっしりしている!)であり、扇橋と最も親しい柳家小三治が卒業した小学校である。私たち十人たらずは通常の句会が終わると、荒木町界隈にもぐりこんで連句のつづきを巻きあげたりして、静かに飲食している。路地はたしかに古くて深く、なかなか抜けられない「道ばかり」である。四谷の秋にどっぷり浸かっての句会……。扇橋が「落語っていうのは哀しいねェ」と言ったという言葉に、小三治はくり返し口にしている。笑って笑って、やがて哀しき……、言い得ている。掲出句と同じ年の句に「河童忌や田端の里に雨ほそく」がある。『友ありてこそ、五・七・五』(2013)所載。(八木忠栄)


October 28102014

 いつよりか箪笥のずれて穴惑

                           柿本多映

位置に置かれている箪笥。部屋の大物は一度場所を定めたら、よほどのことがない限り動かすことはない。いつもの見慣れた部屋の配置である。とはいえ、あるときふとあきらかに箪笥が元の位置よりずれていることに気づく。わずかに、しかし確固たるずれは、絨毯の凹みか、あるいは畳の焼け具合がくっきりと「これだけずれました」と主張しているようで妙に不気味に思われる。確かにここにあったはずのものがこつぜんと消失したりすることなど、日常によくあるといえばあることながらホラーといえばホラーである。穴に入り損なってうろうろしている蛇のように、家具たちも収まる場所が違うとよなよな身をよじらせていたのかもしれない。知らず知らずのうちに狂っていくものに、薄気味悪さとともに、奇妙な共感も得ているように思われる。〈ゆくゆくは凭れてみたし霜柱〉〈たましひに尻尾やひれや蟇眠る〉『粛祭』(2004)所収。(土肥あき子)


October 27102014

 矢の飛んできさうな林檎買ひにけり

                           望月 周

しぶりに、子供のころに読んだ物語を思い出した。「矢」と「林檎」とくれば、ウィリアム・テルのエピソード以外にないだろう。14世紀の初頭、スイスはオーストリアに支配されており、やってきた悪代官は横暴の限りをつくしていた。弓の名手だったテルも難癖をつけられて捕えられたが、意地悪な悪代官は彼に、幼い息子の頭に乗せた林檎を遠くから矢で射ぬけたら、命を助けてやろうと言われる。そこでテルは見事に林檎を射ぬくことに成功し、携えていたもう一本の矢で代官を射てしまう。子供向けの話はここで終わるのだけれど、このテルの働きが導火線となって、スイスはオーストリアの支配下から脱出したのであった。ただし、定説では、ウィリアム・テルはどうやら架空の人物であるらしい、そんな物語を想起させる「林檎」を、作者は買い求めた。平和な時代のこの林檎は、大きくてつやつやと真っ赤に輝いてたに違いない。ずしりと手に重い林檎の姿が、大昔の異国のヒーロー像とともに、読者の胸に飛び込んでくる。『白月』(2014)所収。(清水哲男)




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