G20で我が国の首相が臆面もなく自身の政策の成果をぶち上げてる。(哲




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November 16112014

 人生の生暮れの秋深きかな

                           永田耕衣

句は、最晩年の句集『自人』(1995)所収。耕衣が、淡路阪神大震災に被災した年の刊行になります。「生暮れ」には「なまぐ(れ)」のルビがふられており、造語です。震災は、一月十七日未明に起きたので、その前年の秋の作、耕衣九十四歳の句でしょう。さて、この句をどのように読めばいいのか。「生暮れ」とは何か。耕衣の声に耳を傾けてみることにしました。「枯淡の境地に非ず。解脱を願はず。人が生きるということは、とことん生身でありつづけるということ。生身が人生の中に暮(ぼ っ)していくということ。その時、人生の秋の深さに出会える。存分に生身を生きることが、季節の粋を深く味わい尽くせる。」このような幻聴を聞きました。「陸沈の掟」十ヶ条から二つ引きます。*「卑俗性を尊重すべきこと。喫茶喫飯、脱糞放尿、睡眠男女の類は人間生活必定の最低辺なり。絶対遁れ得ず。故に可笑し。」*「俳句は人間なる事。俳句を作す者は俳人に非ず、マルマル人間なり。」この言を踏まえて「生暮れ」を考えると、生き物であることの本能と本性を本情をもって生き尽くすことではないかと思いました。それは、取り繕ったり、権威におもねたり、こびへつらったり腰巾着になって他人の褌で相撲を取る生き方とは正反対です。しかし、この、当たり前すぎる真っ当な生き方を貫くと人 間社会からスポイルされかねません。それでも、現代のマレビトである耕衣は、「生暮れ」を貫き、生身の肌から少年や女体や白桃、葱、寒鮒、天の川を取り込んで、奇想戦慄を与える言葉を編み出しました。自由自在です。『永田耕衣五百句』(1997)所収。(小笠原高志)


November 15112014

 七五三しつかりバスにつかまつて

                           綾部仁喜

+五+三=十五、だから十五日に七五三を祝う、というのは俗説のようだが、枯れ色の深まっていくこの時期、七五三の小さな晴着姿は色鮮やかで目を引く。七五三というと、そんなかわいらしさや着慣れないものを着て疲れて眠った姿などが句となっているのをよく見るが、この句の切り取った風景は極めて現実的だ。目に浮かぶのは作者の視線の先の子供の横顔と、太すぎるパイプをぎゅっと握りしめている小さな手。バスは揺れ、そのたびに転ぶまいとこれまた履きなれない草履の両足を踏ん張る。バスにつかまる、というのはかなり大胆な省略だがリアリティがあり、子供から少女へ、さらにその先の成長をも感じさせる七五三ならではの一句となっている。藤本美和子著『綾部仁喜の百句』(2014)所載。(今井肖子)


November 14112014

 帰る家が見つかったかいつばめさん

                           如月はつか

に燕は遠く台湾や東南アジアより飛来し秋には帰る。「燕」が春の季語なら「帰燕」は秋の季語である。日本の各地で子を孵し育てる。夏の間市街地や村落で育った若い燕も次第に郊外の河原の葦原、海岸、湖沼などに集まる。ここに子育てのすんだ親鳥たちも合流し大群となり日本を離れてゆく。慣れ親しんだ彼らも今は帰り、街は心なしか淋しくなった。遠いお国に無事着いて安住の家が見つかっただろうか。旅のつばくろ達者で居てね。<結末の分かっている恋雪解風><ブティックのShow windowのみ春の風><独り泣くいつの間にやら虫が鳴く>など。大人に成る前の作者のつぶやきが聞こえる句集。思春期の危うくも敏感な感受性もやがて大人になって錆びついて鈍くなってゆくのだろう。命短し恋せよ乙女、脱線した、面目ない。『雪降る予感』(1993)所収。(藤嶋 務)




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