京都青酸事件。真相は闇の中だけれど、寂しい男たちよ。(哲




2014ソスN11ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 27112014

 マフラーのとけて水かげろふの街

                           鴇田智哉

いマフラーがとけることと水かげろうには何ら因果関係はない。しかし掲句のように書かれてみると、摩訶不思議な世界が立ち上がる。水かげろうからマフラーを呼び出す感覚がすばらしい。人の首から解き放たれたマフラーが何本も何本もボウフラのように立ち上がりユラユラ揺れる水かげろうになってしまったようだ。冬の季語としてのマフラーの本意に縛られていてはこのような発想は生まれてこない。この句を知って以来。川沿いに続く白壁に揺れる水かげろうを見るたび、マフラーの乱舞に思えて仕方がない。『凧と円柱』(2014)所収。(三宅やよい)


November 26112014

 凩に襟を立てれば戦後かな

                           阿部恭久

年の凩一号は、関西・関東地方とも10月27日に記録されている。日増しに寒さはつのるばかり。ワイシャツでもコートでも、襟を立てている若者がいるし、普段はオシャレでなくとも凩が強い日だと、人は思わず襟を立てたくなってしまう。あの襟にはそういう機能も果たしているのだ。思い出すのは、寺山修司は凩や寒さに関係なく、普段から意識的にコートの襟を立てていることが多かった。それがまたカッコ良かったよなあ。カッコ良くない人は、どうか気取って襟など立てませんように。襟が汚れるだけですよ。襟を立てることによって戦後がはじまったわけではない。けれども「襟を立て」るという、ちょっと気取った様子と「戦後」のうそ寒さが妙な具合に呼応して感じられ、どこかホッとさせられるような、懐かしいような……。敗戦で精神的に落ち込んでいた日本人の、やり場のない淋しさ、悔しさ、窮乏感と寒さが、凩と向き合った際、せめて襟を立てるという行為が凛と身を起こしてくるように、私には感じられる。この句に「外套は二十世紀も擦切れて」がならんでいる。「生き事」9号(2014)所載。(八木忠栄)


November 25112014

 枯野には枯野の音の雨が降る

                           松川洋酔

れることの定義を広辞苑ではどう表現しているのだろうとなにげなく開いてみると、「水気がなくなって機能が弱り死ぬ意。死んでひからびる。若さ、豊かさ、うるおいなどがなくなる。」など、なんだか身につまされて、調べたことを後悔する。枯れ果てた草木に追い打ちをかけるような雨を思い、気分が沈む。しかし、気を取り直して「枯れる」の項を読み続けると、最後の最後にパンドラの箱に希望が取り残されていたように「長い経験の結果派手さが消え、かえって深い味を持つようになる」とあった。枯野から放たれる雨音は、思いのほか軽やかで、明るい音色に包まれていたのだ。そして、街には街の音、海には海の音の雨が降るのだと静かに気づかされる。〈裸火の潤みし雨の酉の市〉〈千年の泉のつくる水ゑくぼ〉〈湯たんぽの火傷の痕も昭和かな〉『水ゑくぼ』(2014)所収。(土肥あき子)




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